国史略凡例


大日本史

【龜山天皇
 典侍藤原雅子,從二位雅平女也。【女院小傳、後宮略傳。○典侍尊卑分脈、増鏡。○諸書或作從三位,今據公卿補任訂之。】敘從三位。【女院小傳、皇胤紹運録。】稱中納言典侍,【増鏡】又稱高倉局。【一代要記。】生昭慶門院。【皇胤紹運録、一代要記、帝王編年記。】

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■雲思い
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神武天皇詔敕謹解

神武天皇詔敕謹解  文學博士武田祐吉謹述


例言

  • 一、ここで二千六百年を迎へて、神武天皇の聖紱を紀念し奉り、その御精神を奉戴して國民精神の作興資する事は、今日の時局下に於いて特に意義の有る事と信ずる。依つて神武天皇詔敕謹解を刊行して諸賢の必讀を願ふのである。
  • 一、本書は國學院大學教授文學博士武田祐吉氏に執筆を委囑した。

神武天皇詔敕謹解


一、神武天皇の聖業
 日本帝國がその國運を賭けて居る聖戰此処に第三の春を迎へて、東亞の新秩序の建設は、確實にその步みを進めて居る。しかしながら過ぎて來て跡を顧みると、非常に大きな困難にうち聖つて至つたのであり、同時にこれから先の道も決して容易な物ではないと思はれる。唯天皇陛下の御稜威を仰ぎ、神神の御惠を戴き、國民總べて力を協せ心を一つにして、初めてこの大業を成し遂げる事が出來るであらう。この際に當つて丁度皇紀二千六百年を迎へたのは、大に意味の有る事である。申すまでもなく、我が國の紀元は、神武天皇が大和の國の畝傍の宮に御即位の大典を舉げさせられた年を以つて元年とするのである。それから二千六百年を經過して居る今日は、正しく神武天皇の偉大なる御事蹟を紀念し、追憶し奉るべき絕好の機會であると言はなければならない。さうして神武天皇の御精神を奉戴して、以つて今日の國民の進むべき道を定むべきである。
 遠く神代に遡つて考ふに、天照大神三種の神器天孫瓊瓊杵尊にお授けになり、豐葦原の瑞穗國、即、大日本帝國の君として高千穗の峰にお降しになつてから、永久に光輝のる我が國の歷史は始つている。その間、次第次第に國の威力は強大になつて今日に至つたのであるが、特に大きな國威發揚の場合には、やはりそれぞれに大きな困難にうち勝つて居る。古代に在つては、神武天皇の御事蹟の如きも、最光輝あるものとして仰がれる。瓊瓊杵尊が、高千穗の峰にお降りになつてから、續いて彥火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊の第四皇子として御降誕になり、御歲四十五に及つて、「その地が我が國の西に偏して居つて、國家統治の大業をなされるのに不便である。」と思召されて、東の方大和の國にお移りになり、各地に於ける凶徒を御討伐になつて、遂に即位の式を舉げさせれられたのである。この神武天皇の御精神を拜すべき資料としては、我が國の最古の歷史書の一なる『日本書紀』に、天皇の詔敕を載せて居るのである。これらは何れも貴いものであるが、そのうち特に今日の時勢に於いて重大なる意義を有する詔敕が三篇あつて、今これを假に御下しになつて年代に依つて、紀元前七年の詔敕、紀元前二年の詔敕、紀元四年の詔敕と申し上げる事とする。次にこれらの詔敕を揭げ奉つて、謹んでその意義を說明しようと思ふ。


二、紀元前七年の詔敕
 この詔敕は、天皇御歲四十五歲にましまし、日向の國で皇兄弟及び皇子達に對して仰せられた物である。此時の御事情は、前にも記したやうに、天孫瓊瓊杵尊が高千穗の峰にお降りになつてから、久しく九州南方の地に宮居せされ、その間隼人族の如き附近の豪族を征服せられた如き事はあり、皇威漸く振つたけれども、地の理を言へば猶西に偏して居つて、大八洲全體を統治せられ、更に威を海外に振はせられるには御不便であつたので、東の方、海を航して、本州の地にお移りにならうようとする御趣旨を述べさせられたものである。次にその詔敕の本文を揭げ奉る。但し原文は漢文であつて、その讀み方にも諸說があるが、今これを比較的平易な讀み方に從つて書き下し文とする。以下の詔敕も同樣である。

    • 昔我が天つ神、高皇產靈尊、大日孁尊、此の豐葦原の瑞穗の國を舉げて、我が天つ祖、彥火瓊瓊杵尊に授け給ひき。ここに彥火瓊瓊杵尊、天の關を闢き、雲路を披きて仙蹕を駈せて戾りましき。是の時に、運は鴻荒に屬ひ、時は草昧に鍾れりき。故、蒙くして正しきを養ひ、此の西偏を治らしめしき。皇祖皇考、神にしてまた聖にましまし、慶を積み、暉を重ね、多に年序を歷たり。而はあれど、遼邈なる地、猶いまだ玉澤に霑はず、遂に邑に君あり村に長あり、各自疆を分ら、用ちて相凌き礫らしむ。抑又、鹽土の老翁に聞けるに、東に美き地あり、青き山四に周れり。其の中に亦、天の磐船に乘りて飛び降る者ありと曰しき。余謂ふに、彼の地は必天業を恢弘くし、天の下に光宅なる足りぬべし。蓋し六合の中心か。厥の飛び降りし者は、謂ふに饒速日か。何ぞ就きて都せざらめや。

 この詔敕は、始めに天孫降臨の御事蹟に就いて仰せられて居る。「昔我が天つ神」から「此の西の偏を治らしめしき」までがそれで、今假に第一節とする。次に天孫降臨以後の御事蹟、及び當時の實情に及ばれて居る。「皇祖皇考」より「用ちて相凌ぎ礫らしむ」までがそれで、今これを第二節とする。次に鹽土の老翁の言を舉げさせられ、東方に善き國の有る事を仰せられれ、その地に都すべき事に及ばれて居る。「抑又」から「何ぞ就きて都せざらめや」までがそれで、今これを第三節とする。斯くの如く便宜三節に分つてその御旨趣を謹解しょうと思ふ。
 第一節、大意、昔我が天つ神にまします高皇產靈尊と大日孁尊天照大神の御事。)とが、この豐葦原の瑞穗の國を舉げて、我が祖先にまします彥火瓊瓊杵尊にお授けになつた。そこで彥火瓊瓊杵尊が天の戶をお開きになり、雲の八重立つ道を押し分けて、先驅の者を先立ててお降りになつた。この時に、世は未開化の狀態であつたので、これに應じて正しい道を養ひ給ひ、この西の方面を御統治に相成つた。
 高皇產靈尊は、天地の初に御出現になつた御方で、萬物の出現を司る尊き神である。天照大神の御子なる天忍穗耳尊が、この高皇產靈尊の御女栲幡千千姬尊をお妃として、御子瓊瓊杵尊を產まれたのである。この御緣故で、この神は天孫を非常に御寵愛あらせられて居る。それでの敕語の中にもこの御方の名が舉がられて居るのである。又萬物を產み出すこの神の御紱は、天照大神の御紱の一面を現したものとも考へられるのであつて、瓊瓊杵尊が高千穗の峰に御降臨になつた事は、即、この國に御出現になつた事になるから、この神の御威紱の現れたものであるとも見られるのである。大日孁尊天照大神の御事である。天の關を闢きとは、高天原からの御通路に當る門戶をお開きになる事である。雲路を披きてとは、高天の原からの御降臨になるのに、すべて天からお降りになるといふ形で神話が說かれて居るので、雲の道を押し分けてといふ意味に仰せられて居る。仙蹕を駈せて戾りますとは、仙蹕とは、御行列の前を聲を掛けて拂ふ事で、先驅の者を差し立ててお降りになつたといふ事である。運は鴻荒に屬ひ時は草昧に鍾るといふは、對句で現されて居るが、古代の時今だ文化に浴せず、萬事草創の際で何事もまだ發達するに至らなかつた狀態を言ふ。蒙くして正しきを養ふとは支那いの易經にある句であるが、その時に當つてその正しい道を御養成になる事を言ふ。意は聖賢の道をお立てになつたといふ事である。
 第二節、大意、彥火火出見尊並びに鸕鶿草葺不合尊の二代は、續いて猶日向にましまし、いとも尊き君でおいでになり、慶福を積み、光輝を重ねて多くの年代を經た。しかしながらその地より猶遠方の土地は、未だ皇室の御恩惠に浴せず、遂に地方地方にこれを領する者が出來で、それぞれ境界を分ち、互に爭鬥するに至つた。
 皇祖皇考は、神武天皇の御祖父の君なる彥火火出見尊と、御父君にまします鸕鶿草葺不合尊とを指し奉る。この二代は、日向にましまして、將來發展の準備をなされた時代であつた。神にしてまた聖にましますとは、至つて御賢明であつて仰ぎ貴むべき御方であつた事を言ふ。慶を積み暉を重ねは、君としての御紱をお積み遊ばされ、自然に慶賀すべき事の多かつた事を言ふ。遼邈な地は、九州南方より指して申されるので、主としてそれより東北方に當る本州及びその他の諸國をいふ。邑に君あり村に長あり云云は、王化の今だ十分に至らざるに乘じて、小勢力が各地方を占據して居た實狀をお述べになつて居る。當時九州南方は、彥火火出見尊の御征討の御事蹟に依り、全く王化に服したのであつたが、自然遠方の地にまでは及ばなかつたのである。この一節は、やがて次の更に東方本州の地にお移りにならうとする御趣旨の據りどころとなるて居る。
 第三節、大意、斯くの如くにして今鹽土老翁に聞いた事である。これより東方に善き國があつて、青青とした山が四方に周つて居る。その中に天の磐船に乘つて飛び降りた神があると言つて居つた。そこで思召されるには、その國は必天皇統治の大業を廣大にし、天下に威風を示すに足りるであらう。思ふにそれは國土の中心であらうか。その飛び降りた神は饒速日命であらう。その地に赴いてこれを帝都と為すべきである。
 鹽土老翁とは、鹽は海水、土(ち)は尊稱で、いかづち(武甕槌神‧雷)、かぐつち(軻遇突智‧火)と同じである。海水を尊稱して言ふ。海水は全世界到る處の海濱にうち寄せる物であつて、自然世界の事情、殊にその地理的知識に通達して居る者として、これを人格化して言ふのである。曾つて彥火火出見尊が海濱に徘徊せられた時にも、この神が海神の宮へと御案內申したと傳へて居る。この老翁の言に聞くにと仰せられてゐるのは、天皇が、例へば漁夫の者などから御知識を得させられて居るのを、有識者といふ意味に代表的な者の名を舉げさせられたのである。東に美しき地ありといふのは、本州の事であるが、主としてその中の大和の國をお指しになつて居る。天磐船に乘つて飛び降る者があるとは、後の文に「謂ふに饒速日か。」とあるやうに、饒速日命の事である。この神は、系譜は未詳であるが、忍穗耳尊の御子とも傳へてゐる。天磐船は堅固な船の意味で、古代の船は多く楠材等で造るから、磐楠船などとも言ふ。船に乘り海を航して到り著いたのを、神話の形で、天から飛び降りたといふ現し方をなされてゐる。饒速日命は、河內國の河上の哮峰にお降りになり、大和國の鳥見の白庭山に移り、長髓彥の妹を娶つて、その主君として仰がれたが、後に長髓彥の皇軍に敵對するのを憎まれ、これを誅して歸順せられた。その子孫は物部氏である。元來この方が、大和國に降られたのは、神武天皇の御出現をお慕ひ申し上げて、先づその國に降つたのだと傳へられて居る。天業を恢弘するとは、天業は天神のお授けになつた大業の意で、天下御統治の聖業をいふ。恢弘は何れも廣くする意味の語で、天皇としての聖業は雄大に擴張せられる義である。天下に光宅するとは、光は大、宅は居で、堂堂としてまします義である。六合は、天地及び東西南北の四方で、六合の中心とは、天下の中心といふが如き意である。以上は大和國は天下の中心であり、且美しき國土であることを述べさせられ、そこにお移になつて、天下統治の大業を完成させられようとする御趣旨をお示しなつたものである。
 この詔敕は、將に日向を發して御東征の途にお上りにならうとして發せられた所であつて、天つ神が天孫にこの國を授けになつた事より說き起され、その天孫降臨の御精神を實地に當つて行はうとする御趣旨に拜せられる。神武天皇御一代の大業は、全くこの詔敕の御趣旨を實行せられたものと拜察し奉るのである。『古事記』『日本書紀』の如き最古の歷史書に於いては、神武天皇の御事を「天つ神の御子」と申し上げてゐる。その御方が此の國に御出現になり、天皇としての大業を行はせられるのは、高天原から天つ神の御命をお受けになつて御出現になつたものであり、或る意味に於いては、天孫降臨の御事蹟を再び此處に實現せられたものと申し奉る事が出來るのである。今、神武天皇御即位の年を記念し、その御事蹟を仰ぎ奉るに當つて、玆に先づその大方針とも申すべき詔敕を拜誦し奉るのは非常に大きな意味がある事である。


三、紀元前二年の詔敕
 神武天皇が上揭した詔敕をお降しになつたのは、甲寅の年であつて、實に紀元前七年の事であつた。その年直に、諸皇子及び舟師を率ゐて御東征の途にお上りになつた。十月に御出船になり、速吹の門を經て筑紫の菟狹にお著きになつた。速吹の門は今日の豐後水道で、菟狹は大分縣宇佐である。十一月筑紫の崗の水門に到り、十二月には安藝國の埃宮においでになつた。翌年三月には吉備國に入り、高嶋宮にましました。これは今日岡山縣に屬して居る。そこで更に準備を整へられ、紀元前三年の二月に難波崎に到り、三月河內國の白肩津に御船が到著した。この間詳細な記事の傳はつてゐるのは無いが、やはり處處の土民を心服せしめられたものと拜察される。
 當時の大阪灣附近は、今日の淀川と大和川とが河內國に於いて合流して居つたものと傳へられ、これを溯つて御船は直に草香山の麓に御到著になつたのである。當時の大和國の事情は、上揭の詔敕にも見えるやうに、小勢力分立を為し、各各相爭つて居たものである。今當時の重なものを舉げて見ると、鳥見(生駒郡)の地に長髓彥があり、宇陀の地に兄滑・弟猾があり、磯城の地に兄磯城・弟磯城があり、その外八十梟帥等、各地に賊徒が割據して居つた。そこで四月に孔舍衛坂の戰があり、皇兄五荑命は賊の流矢に當つて傷かれた。天皇天照大神の御子にましまして、今東の方、日に面して戰ふ事良からずとされ、更に南の方に迂迴せられて、紀伊國を經て大和國に入らうとせられた。その途中、紀伊國の雄水門に於いて五荑命は遂に薨去せられた。斯くて熊野の地を經て大和國に入り、各地の賊徒を順次御討伐になつた。
 斯くて紀元前二年三月に至つてほぼ國內平定の事が成つたので、玆に詔敕を降して、更に天下統治の御精神を宣揚せられた。その文中、八紘を掩ひて宇と為すの句があるので、八紘一宇の詔敕と稱し奉りこともある。今その詔敕を次に紀し奉る。

    • 我東を征ちしよりここに六年なり。皇天の威を褚りて、凶徒就戮さえき。邊の土今だ未だ清まらず、餘の妖尚梗しといへども、中洲の地に復風塵無し。誠に皇都を恢廓めて、大壯を規り摹るべし。今運此の屯蒙に屬ひ民の心朴素なり。巢に棲み穴に住む、習俗惟常となれり。夫大人の制を立つるは、義必時に隨ふ。茍も民に利きこと有らば、何ぞ聖の造に違はむ。且山林を披き拂ひ、宮室を經營りて恭みて寶位に臨みて元元を鎮むべし。上は天靈の國を授け給ひて紱に答へ、,下は皇孫の正之しきを養ひし心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇と為さむこと、亦可からずや。夫の畝傍山の東南の橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區か。治らすべし。

 この詔敕は、九州の地を發して以來の事を述べさせられ、又、當時の民情を詳にせられて、ここに帝位に即いて統治せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今便宜三節に分つて、その御趣旨を述べよう。初から「大壯を規り摹るべし。」までが第一節で、九州御出發以來、天つ神の御威紱に依つて兇徒を討伐し、中央の地方を御平定になつたことを述べられ、當に都を定め宮殿を建造すべしとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「今運此の屯蒙に屬ひ。」から「正しきを養ひ給ひし心を弘めむ。」まで第二節で、時代のまだ早しくて民心が醇樸である事を述べられ、帝皇として制を立てるのは時機に從ぐべし、民を利す事があらば、これを行ふべしとし、帝位にお即きになつて天つ神の國を授けになつた御紱にお答へ申し上げ、更に天孫の正しき道を養ひになつた御心を廣めようとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「然して後に、」以下第三節で、更に進んでは國土を併せて都を開き、天下を掩うて家となすもよからずやとし、畝傍山の東南の橿原の地を以つて國の中心として、此處に都せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今更に各節に亘つてこの詔敕の意義を明にしよう。
 第一節、大意、日向國を發して東に向つてから茲に六年である。天つ神の御威紱に依つて兇徒が誅伐せられた。片田舍は未だ鎮まらず、殘つて居る賊が猶強猛であるけれども、中央の國には騷亂が無くなつた。誠に帝都を雄大しに、宮殿を建設すべきである。

 この詔敕を降された紀元前二年は、己未年であるから、日向を御出發になつた甲寅年から六年になる。斯くして大和を中心とする地方が既に平靜に歸したので、茲に帝都を定め宮城を御造營になるべきであるといふ意味をお述べになつて居る。餘の妖尚梗しとは、兇徒にして今だ皇軍の征討を蒙らざる者の殘つて居る事をお仰せられて居る。梗は勇猛にして荒き事を言ふ。恢廓は恢弘と同じく、雄大にする事である。大壯は易經にある語で、宮殿の壯大なるものを言ふ。斯くの如く帝都を定め宮殿を營まれるのは、天下統治の基礎としてその中心をお定めになる御義である。
 第二節、大意、今、時世は未開醇樸の時代であり、民の心は素朴である。巢に棲む者もあり、穴に住む者もある。かやうな風俗を常としてゐる。それ聖賢の制度を立てるのは、その道理は必時勢に隨ふのである。假にも民にとつて益する事があるならば、かやうな聖賢の業に違はないやうにすべきである。茲に山林を開發し宮殿を經營して、嚴として帝位に即き人民を鎮撫すべきである。斯くして上は天つ神が國をお授けになつた御紱にお答へ申し、下は天孫の正しき道をお養ひになつた大御心を弘めとうと思ふのである。
 屯蒙は、紀元前七年の詔敕に「蒙くして正しきを養ひ」とあつた蒙に同じである。屯は物の始めて生ずるを言ひ、蒙は物の稚きを言ふ。全て創始時代に在つて、今だ整はざる狀態にあるのを言ふ。運は時世で、當時今だ諸事の發生したままで、整頓しなかつた事を仰せられて居る。巢に棲み穴に住むとは、古代人民の生活の原始的であつたのを云ふ。巢に棲みとは樹上に巢を懸けて住むのを言ひ、穴に住むとは地上に穴を堀つてこれに住むことである。大人は賢人賢者で、茲には人民を指導する者を指して仰せられて居る。制を立つ云云は、聖賢は人民の從ふべき道を定めるのは、その道理が時勢に叶ふやうにすると云ふ意味である。聖の造は大人の道であつて、上の大人の制を立つるは云云を受けさせられて居る。山林を披き拂ひ宮室を經營するは、第一節の皇都を恢廓し大壯を規摹するの句を受けさせられて、更に之を實行に移さるべき御旨趣を述べさせられて居る。恭は身を謹む貌。天つ神の御授けになつた天皇の御位にお登りになるのであるから、恭しくなされる意味である。寶位は天皇の御位。元元は萬民を言ふ。天靈は天つ神の御靈であり、紀元前七年の詔敕に見えた高皇產靈尊、大日孁尊を指し奉る。皇孫は瓊瓊杵尊以下三代の君を指し奉る。正を養ひし心は、前の詔敕にあつた蒙くして正を養ひの句を受けて居られる。以上第二節は當時の壯勢をお述べになり、君たる者はこの時世に應じて道を立てるべき事を記され、神意を以つて人民を統治し、以つて天つ神の御紱に答へ奉り、天孫の道を更に廣大にせむとする御趣旨を述べささせられて居る。
 第三節、大意、斯くの如くにして後に、天地四方を併せて都を開き、八方を掩うて家となさむ事も良い事ではないか。斯の畝傍山の東南の橿原の地を見れば、蓋し國土の中央であらうか。此處に於いて天下を統治すべきである。
 六合を兼ねは、天地四方を併せて帝都とせられる意義で、雄大なる欲規模を述ねさせられて居る。八弘は列子にある語で、八方に同じで紘は天地に綱を張る義である。八方を掩うて我が家とせんとする雄大なる御精神をお述べになつて居る。誠に日本帝國の進むべき道をお示しになつた句として、其の雄大なる御精神を仰ぐべきである。畝傍山は大和の國にある山名で、其の東南の地の橿原は、今日の橿原神宮の地である。元橿の樹木が多くあつたので起つた地名であらう。墺區は深き處の義で、中央と云ふに同じ。
 以上此詔敕は、帝都の御建設と宮殿の御造營とを計劃せられ、茲に帝位にお即きになつて、人民を統治すべきであるとなされる御趣旨をお述べになつて居る。其の順序として、日向の國御出發以來の事、並びに當時の天下の狀勢をお述べになつて居る。又斯くの如くにして、天つ神及び天孫の御心にお答へ申し上げる事が出來ようとの御趣旨である。さうして之に依つて、進んでは六合を兼ねて都を開き、八紘を掩うて家と為すも亦可とすべきではないかと云ふ、雄大無比の御精神を御示しになつてゐる。斯くして此月に臣下に命じて宮殿御造營をお始めになつた。其の翌翌年の正月元日に、天皇が橿原の宮で帝位にお即きになつた。此年が天皇の元年であつて、即、紀元元年である。
 此詔敕は、神武天皇の帝位にお即きになる御精神を發揚せられた物で、我は國に於ける紀元の意義は茲に仰ぐべき物と考へられる。天皇御即位の意義は、人民の上をお思ひになつて御統治せられるにあり、之を推し廣めて、天下を家とする御規模が含まれて居るのである。其の意味に於いて此詔敕の御趣旨を拜誦すべきである。


四、紀元四年の詔敕
 紀元二年には、御東征に際して事に從つた者の功を論じ、それぞれに賞を行はせられた。四年二月に、又次の詔敕をお下しになつて、神祇を崇敬すべき御趣旨を述べになつてゐる。今その詔敕を揭げ奉る。

    • 我が皇祖の靈、天より降り鑒りて朕が躬を光らし助け給へり。今諸の虜已平け、海內に事無し。天神を郊祀りて大孝を申ぶべし。

 此詔敕は、始に皇祖の神靈に依つて兇賊を討伐し、天下の平定を得たことをお述べになり、之に依つて、天つ神を祭つて、孝道を明にせらるべき意味をお述べになつてゐる。皇祖の靈が天より降つてとある皇組は、前出の高皇產靈尊、大日孁尊を指し奉る。降り鑒りとは、時に臨んでその御威光を現されたことを言ふ。熊野の地に於いて惡神の毒氣をお受けなつた時に、天がら神劍が降つて助けられた事、吉野山中で八咫烏が降つて案內し奉つた事、長髓彥をお討ちになつた時に金色の鵄が降つて御弓に止つた事等はその例である。その外、陰に陽に常に天皇の大業を助けられて居る事を指されて居る。郊祀は、天を祭る事と云ふ。支那で祖先を南郊に祭るので郊祀の文字を使ふのである。大孝は皇祖、皇考の御紱に報じ奉る事を云ふ。


 この詔敕の御趣旨は,日向御出發以來多年に亘つて多くの困難はあつたけれども、遂に賊徒を討伐して天下統治の大業を成されたのは、全く天つ神の威紱に依るのであるから、此處に報本反始の道をお盡しにならうとする意味である。斯くて靈峙を鳥見の山中にお立てになつて、皇祖の天神をお祀りになつた。此處に云ふ鳥見は長髓彥の居つた鳥見とは別の地で、宇陀郡の萩原の地と云ふ。靈峙は齋場であつて、祭祀を行ふ處である。時は神靈の止まる處を云ふ。神武天皇敬神の御事蹟は、既に賊徒御討伐の間にも現われて居る。殊に紀元前三年九月、賊徒の軍の兇暴なるを討伐せんとして、人を天香具山に遣して、その山の土を取つて八十平瓫等の祭器を造つて、親しく天神地祇を祭られ、其の後兵を出して八十梟帥を御討伐になつた事がある。今此處に大業の成るに及んで、更に天つ神を祭つて崇敬の大御心を明にせられれたのは、誠に仰ぐべき、尊むべき大御心に出たのである。我が國は天照大神の神敕に依つて創められた國であり、すべて神代に神神の行はせられた跡を道として進んで行く國である。神武天皇は、正しくこの意味に於いてその範を示されたものと申すべきである。國民として深く思を此處に致すべきである。さうして之を大にしては、天つ神ヌの國家をお開になつた始を仰ぎ、又、國民自ら夫夫の祖先を祭つて各自の孝道を明にすべき所である。


五、結び

 以上は、日本書紀に依つて傳へられた神武天皇の詔敕三篇を舉げて、その御旨趣を謹解し奉うたのである。此三篇は、夫夫お降しになつた場合に依つて其の內容は變つて居る。然し其の御精神は嚴として一貫して居る物が有るのである。
 紀元前七年の詔敕に在つては、天孫降臨の御精神を基礎として、中央の地を平定して、天下統治の大業を成されんとする御計劃を述べさせられて居る。次に紀元前二年の詔敕に在つては、第一の詔敕に現れた御計劃はほぼ完成し、更に國家としての形態を整備して、天下に示さんとする御精神を發揚せられ、しかも將來八紘を掩うて家と為さんとする大理想をお示しになつてゐる。紀元四年の詔敕に在つては、既に天下を平定して帝位にお即きになり、その始を顧みて天神を祭り、茲に大孝の道を明にせられてゐる。斯くの如く神武天皇の大業は、全く天孫降臨の御精神を實行の上に移された物と申し上ぐべきである。去れば其の御即位の年を紀元元年とし、之を記念する事は、天孫降臨の御精神を實行さられた事を記念する意味であり、其處に示された八紘一宇の御理想を深く肝に銘して味ふべきである。
 そもそも天孫降臨天孫降臨の事實は、我が國古代に在つて人人今だ信服すべき所を知らず、自らの勢力に誇つて相互に爭鬪を事として居つたのを、軍神經津主命、武甕槌命をして之を平定せしめ、此處に天孫瓊瓊杵尊の御降臨になつたもので、我が日本帝國り基礎は茲に定まつた物と申すべきである。然しながら實際の問題としては、皇威の及ぷ所、猶未だ西の國に限られて居たのであるが、神武天皇は更に東方、即大八洲の中心地方を御平定になつて、茲に儼然たる日本帝國の組織を完成せられたのである。而して神武天皇の大業が天孫降臨の御精神の發揚であり、しかも其の精神は、更に日本帝國の前途に一層大なる發揚を約束せられて居るのであるから、日本國民たる者はこの御精神を拜して、協力一心、日本帝國の完成に努力すべきである。此意味に於いて神武天皇の詔敕は日本帝國の進むべき道をお示しになつた物のとして仰がれるのである。神武天皇の御事蹟に依つて大和を中心とする日本帝國は其の姿を現した。崇神天皇は四道將軍を派して、更に北陸、東海・西道、丹波等の各方面に王化を擴張せられた。其の後ロ日本歷史の經過は今此處に說く迄も無いであらう。近は明治天皇の御事蹟を拜しても、皇威は愈愈四海に輝く大事實を仰ぎ見るのである。今や日本帝國の版圖は愈愈廣く、北は樺太から南は台灣に及び、其の威風の及ぶ處は、更に之に幾多の地方を加へ、又實に數十倍を越えんとする地方にも及んで居る。此れ實に神武天皇の大業の繼續であつて、天皇詔敕の御精神の意義は、今日に於いて正に明にせられたといふべきである。今皇紀二千六百年を迎へて、神武天皇の大業に思を馳せ、其の意義を明確にするのも亦、國民として為さねばならなぬ務であると信ずる。日本國民は、須らく神武天皇の詔敕を、日夜に拜誦して、其の御精神の發揚に全力を傾注すべきである。


  • 昭和十五年二月八日   印刷
  • 昭和十五年二月十一日  發行   (非賣品)
  • 昭和十五年三月一日   三版

武田氏逝去丁度五十年目によって公開致します。ですので、著作権保護期間70年延長に対する断固に反対致します。