元亨釋書卷三、万葉集試訳

■元亨釋書卷三 慧解二之二
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万葉集試訳

3868 【承前,十首第九。】
 奧去哉 赤羅小船爾 裹遣者 若人見而 解披見鴨
 沖行(おきゆ)くや 赤(あか)ら小舟(をぶね)に 裹遣(つとや)らば 蓋(けだ)し人見(ひとみ)て 解開見(ときあけみ)むかも
 今往沖瀛去 漂泊赤色小舟矣 若托贈物而 遣以交付荒雄等 人蓋解開見之哉
山上憶良 3868

「赤(あか)ら小舟(をぶね)に」,漁船腹塗上赤色顏料之小船。
「裹(つと)」,贈物。家人希望轉交給荒雄等之包裹。
「蓋(けだ)し人見(ひとみ)て」,人蓋指赤色小舟之乘員。或云指荒雄。

3869 【承前,十首第十。】
 大船爾 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄爾 潛將相八方
 大船(おほぶね)に 小舟引添(をぶねひきそ)へ 潛(かづ)くとも 志賀荒雄(しかのあらを)に 潛逢(かづきあ)はめやも
 縱於大船骸 引添小舟滯其側 深潛下海底 嗚呼志賀荒雄等 沉潛豈可相逢哉
山上憶良 3869
 右,以神龜年中,大宰府筑前國宗像郡之百姓宗形部津麻呂,宛對馬送粮舶柁師也。于時,津麻呂詣於滓屋郡志賀村白水郎荒雄之許,語曰:「僕有小事,若疑不許歟。」荒雄答曰:「走雖異郡,同船日久,志篤兄弟。在於殉死,豈復辭哉。」津麻呂曰:「府官差僕宛對馬送粮舶柁師。容齒衰老,不堪海路。故來祇候。願垂相替矣。」於是荒雄許諾,遂從彼事。自肥前國松浦縣美禰良久埼發舶,直射對馬渡海。登時忽天暗冥,暴風交雨,竟無順風,沈沒海中焉。因斯,妻子等不勝犢慕,裁作此歌。或云:「筑前國守山上憶良臣,悲感妻子之傷,述志而作此歌。」

「大船(おほぶね)に 小舟引添(をぶねひきそ)へ」,派遣搜索對至荒雄等遇難現場之具體表現。
「潛(かづ)くとも」,令潛水夫下水探索。
以上,或云山上憶良所代作。

3870 【無名歌第一。】
 紫乃 粉滷乃海爾 潛鳥 珠潛出者 吾玉爾將為
 紫(むらさき)の 粉潟海(こがたのうみ)に 潛鳥(かづくとり) 玉潛出(たまかづきで)ば 我(わ)が玉(たま)に為(せ)む
 高雅貴紫兮 於茲粉潟海之間 殷勤潛鳥矣 汝若潛出獲玉者 可以贈為我玉哉
佚名 3870
 右歌一首。

「紫(むらさき)の」,「粉(こ)」之枕詞。蓋以紫色色濃而言。
「粉潟海(こがたのうみ)」,所在未詳。或云與「越海の子難海」同,未知是否。

3871 【承前,無名歌第二。】
 角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
 角島(つのしま)の 瀨戶稚海藻(せとのわかめ)は 人共(ひとのむた) 荒(あら)かり然(しか)ど 我(われ)とは和海藻(にきめ)
 長門角嶋之 瀨戶所生稚海藻 雖然於他人 是為質劣麤荒者 於我則屬和海藻
佚名 3871
 右歌一首。

「角島(つのしま)の 瀨戶稚海藻(せとのわかめ)は」,角島乃長門國豐浦郡豐北角島。「瀨戶」即海峽。平城宮木簡有「長門國豐浦郡都濃島所出穉海藻。天平十八年三月廿九日。」與此歌場所、時間皆近。
「人共(ひとのむた)」,「共(むた)」一般為「與共」之意,此則云對他人而言。
「荒(あら)かり然(しか)ど」,蓋指較「稚海藻(せとのわかめ)」質劣之「滑海藻(あらめ)」。日葡辭書有云「あらめひと,粗暴、粗魯之人。或苛酷之人。」此或云,不為一般男子所青睞之男性化女子。
「我(われ)とは和海藻(にきめ)」,對作者而言是一班的細海藻。

3872 【承前,無名歌第三。】
 吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 千鳥者雖來 君曾不來座
 我(わ)が門(かど)の 榎實摘食(えのみもりは)む 百千鳥(ももちとり) 千鳥(ちとり)は來(く)れど 君(きみ)そ來坐(きま)さぬ
 吾庭屋戶間 千鳥百千鳥飛至 來摘食榎實 群鳥千羽雖來此 所盼伊人不臨也
佚名 3872

「榎實摘食(えのみもりは)む」,「摘食(もりは)む」指摘取小果實、山芋之芽而喫之。
「百千鳥(ももちとり)」,百鳥之意。ち於此為複合語中之助數詞。
「千鳥(ちとり」,千羽之鳥。

3873 【承前,無名歌第四。】
 吾門爾 千鳥數鳴 起余起余 我一夜妻 人爾所知名
 我(わ)が門(かど)に 千鳥繁鳴(ちとりしばな)く 起(お)きよ起(お)きよ 我(わ)が一夜夫(ひとよづま) 人(ひと)に知(し)らゆ勿(な)
 吾庭屋戶間 千鳥齊鳴聲不斷 當起當寤矣 愛也我之一夜夫 切莫張揚令人知
佚名 3873
 右歌二首。

「我(わ)が一夜夫(ひとよづま)」,並無特定關係,因偶然而共度一宵的男子。
神樂歌有類想歌「雞は かけろと鳴きぬなり 起きよ起きよ 我が家門に 夜の夫人もこそ見れ」

3874 【承前,無名歌第五。】
 所射鹿乎 認河邊之 和草 身若可倍爾 佐宿之兒等波母
 射(い)ゆ鹿(しし)を 認(つな)ぐ川邊(かはへ)の 柔草(にこぐさ)の 身若(みのわか)かへに 小寢(さね)し兒等(こら)はも
 射彼豬鹿獸 識認其跡追川邊 柔草青所如 此身青春年稚時 率寢伊人今何如
佚名 3874
 右歌一首。

「射(い)ゆ鹿(しし)を」,負箭傷之鹿。
「認(つな)ぐ川邊(かはへ)の」,「認(つな)ぐ」乃辨別其足跡追尋而去。此云鹿出現於人里附近,隨其足跡追至水邊。
「柔草(にこぐさ)」,柔嫩稚草。
「若(みのわか)かへ」,年輕之時。
「小寢(さね)し兒等(こら)はも」,「はも」為現今之狀態。
上三句與齊明紀歌謠「射ゆ鹿豬を 認ぐ川上の 若草の 若く在きと 吾が思は無くに」同。https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki26.htm#s0117

3875 【承前,無名歌第六。】
 琴酒乎 押垂小野從 出流水 奴流久波不出 寒水之 心毛計夜爾 所念 音之少寸 道爾相奴鴨 少寸四 道爾相佐婆 伊呂雅世流 菅笠小笠 吾宇奈雅流 珠乃七條 取替毛 將申物乎 少寸 道爾相奴鴨
 琴酒(ことさけ)を 押垂小野(おしたれをの)ゆ 出(いづ)る水(みづ) 溫(ぬる)くは出(いで)ず 寒水(さむみづ)の 心(こころ)も異(け)やに 思(おも)ほゆる 音少(おとのすく)なき 道(みち)に逢(あ)はぬかも 少(すく)なきよ 道(みち)に逢(あ)はさば 色著(いろげ)せる 菅笠小笠(すげかさをがさ) 我(わ)が項(うな)げる 玉七緒(たまのななつを) 取替(とりか)へも 申(まを)さむ物(もの)を 少(すく)なき道(みち)に 逢(あ)はぬかも
 琴瑟醴酒兮 自於押垂小野而 泉湧清水者 爽朗冷冽不溫燜 寒水之所如 我心無愧清清矣 所思懷如是 欲得無喧囂 行逢寂靜浦安道 若得恬靜之 安謐沉寂道逢者 可以取君之 色美菅笠小笠而 與吾項所飾 七重御統勾玉緒 相易而裝身 如是由衷所申矣 若得恬靜之 安謐沉寂道逢者
佚名 3875
 右歌一首。

「琴酒(ことさけ)を」,「押垂小野(おしたれをの)」之枕詞。琴、酒皆為君子所熟悉之物。
「押垂小野(おしたれをの)」,蓋為地名,所在未詳。
「寒水(さむみづ)の」,如冷冽清水一般。
「心(こころ)も異(け)やに 思(おも)ほゆる」,「異(け)やに」表與眾不同。以上諸句用以提出「音少(おとのすく)なき 道(みち)に逢(あ)はぬかも」。
「音少(おとのすく)なき」,人音稀疏,沒有喧鬧之聲。
「色著(いろげ)せる」,美麗的配色。
「菅笠小笠(すげかさをがさ)」,縫有菅葉點綴之小笠。
「我(わ)が項(うな)げる」,掛在頸上。
「玉七緒(たまのななつを)」,串有勾玉之多重項鍊。
「申(まを)さむ物(もの)を」,「申(まを)さむ」於此有奉上之意。
期望與戀人相會在無人的道路上之女歌。

3876 豐前國白水郎歌一首
 豐國 企玖乃池奈流 菱之宇禮乎 採跡也妹之 御袖所沾計武
 豐國(とよくに)の 企救池(きくのいけ)なる 菱末(ひしのうれ)を 摘(つ)むとや妹(いも)が 御袖濡(みそでぬ)れけむ
 筑紫豐前國 企救池間所埴生 菱末菓實矣 屈身摘取伊人之 御袖既濕沾漬濡
佚名 3876

「菱末(ひしのうれ)を」,菱角。
「摘(つ)むとや」,蓋是為了我而摘取。

3877 豐後國白水郎歌一首
 紅爾 染而之衣 雨零而 爾保比波雖為 移波米也毛
 紅(くれなゐ)に 染(そ)めてし衣(ころも) 雨降(あめふ)りて 匂(にほ)ひは為(す)とも 移(うつろ)はめやも
 謹以紅花而 八入摺染此衣者 雖然逢雨降 其色更濃赤更豔 豈有褪色之理哉
佚名 3877

「染(そ)めてし衣(ころも)」,此以染衣為男女夫妻契約之比喻。
「匂(にほ)ひは為(す)とも」,發出鮮豔美麗之赤色,比喻男女情愛更為溢發。
「移(うつろ)はめやも」,褪色,比喻愛情衰退之狀。

3878 能登國歌三首
 堦楯 熊來乃夜良爾 新羅斧 墮入和之 阿毛低阿毛低 勿鳴為曾禰 浮出流夜登 將見和之
 梯立(はしたて)の 熊來泥海(くまきのやら)に 新羅斧(しらきをの) 落(おと)し入(い)れわし 上(あ)けて上(あ)けて 勿泣(なな)かしそね 浮出(うきい)づるやと 見(み)むわし
 堦楯梯立兮 能登熊來泥海間 所執新羅斧 墮入海底鐵沈水 嗚呼莫泣若如此 請勿嗚咽手無措 其或浮出泛水上 嗚呼愚人可見之
佚名 3878
 右一首,傳云:「或有愚人,斧墮海底而,不解鐵沈無理浮水。聊作此歌,口吟為喻也。」

「梯立(はしたて)の」,梯子,此為「熊來」之枕詞。
「泥海(やら)」,蓋尼海、沼澤之疇。左注有「海底」云云。
新羅斧(しらきをの)」,新羅舶來之斧,或為造船工具。
「わし」,囃子狀聲用語。
「上(あ)けて上(あ)けて 勿泣(なな)かしそね」,勸人止泣之狀。

3879 【承前。】
 堦楯 熊來酒屋爾 真奴良留奴 和之 佐須比立 率而來奈麻之乎 真奴良留奴 和之
 梯立(はしたて)の 熊來酒屋(くまきさかや)に 真罵(まぬ)らる奴(やつこ) わし誘立(さすひた)て 率(ゐ)て來(き)なましを 真罵(まぬ)らる奴(やつこ) わし
 堦楯梯立兮 能登熊來酒屋間 遭逢真罵奴人矣 嗚呼實當誘立而 邀之率來而可以 無奈遭罵奴人矣 嗚呼
佚名 3879
 右一首。

「酒屋(さかや)」,釀酒之酒造。『播磨國風土記』有「造酒殿之處,即號酒屋村。」云云。 https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/harima/harima01.htm
「真罵(まぬ)らる奴(やつこ)」,未詳。姑作遭到謾罵解。
「誘立(さすひた)て」,「誘(さすひ)」蓋為「誘(さそひ)」之訛。

3880 【承前。】
 所聞多禰乃 机之嶋能 小螺乎 伊拾持來而 石以 都追伎破夫利 早川爾 洗濯 辛鹽爾 古胡登毛美 高坏爾盛 机爾立而 母爾奉都也 目豆兒乃刀自 父爾獻都也 身女兒乃刀自
 香島根(かしまね)の 机島(つくゑのしま)の 小螺(しただみ)を い拾持來(ひりひもちき)て 石以(いしも)ち 突破(つつきやぶ)り 速川(はやかは)に 洗濯(あらひすす)ぎ 辛鹽(からしほ)に こごと揉(も)み 高坏(たかつき)に盛(も)り 机(つくゑ)に立(た)てて 母(はは)に奉養(あへつ)や 目豆兒刀自(めづこのとじ) 父(ちち)に奉養(あへつ)や 身女兒刀自(みめこのとじ)
 能登香島根 机島之間所生息 小螺馬蹄螺 俯身拾取持來之 手執石堅而 敲擊衝突以破之 復至速川間 洗濯滌蕩潔淨之 又取辛鹽而 揩拭搓揉之 盛於高腳華盃間 擺設載立於机上 蓋欲奉養慈母哉 可愛刀自美人兒 或欲奉養嚴父哉 可怜刀自身女兒
佚名 3880

「香島根(かしまね)の」,在能登七尾周邊。香島原文「所聞多」。
「小螺(しただみ)」,馬蹄螺。
「突破(つつきやぶ)り」,敲擊堅固物體以壞之。
「洗濯(あらひすす)ぎ」,清洗。
「辛鹽(からしほ)」,熬煮之海水。
「こごと」,狀聲詞。用力戳柔之狀。
「高坏(たかつき)」,付有高腳之皿。
「机(つくゑ)」,載台。
「奉養(あへつ)」,製作食物以奉養。
「目豆兒(めづこ)」,寵愛的女兒。
「刀自(とじ)」,對婦人之敬詞。此用以表示年輕女子。
「身女兒(みめこ)」,未詳。或云「身賣」之轉。

3881 越中國歌四首
 【四首第一。】 大野路者 繁道森俓 之氣久登毛 君志通者 俓者廣計武
 大野道(おほのぢ)は 繁道茂路(しげちしげみち) 繁(しげ)くとも 君(きみ)し通(かよ)はば 道(みち)は廣(ひろ)けむ
 大野道也者 繁道茂路森俓矣 雖然草木深 然而吾君欲通者 想必其路自開矣
佚名 3881

「大野道(おほのぢ)」,前往大野之道路。或云大野蓋今日富山縣西礪波郡福岡町三日市邊。
「繁道茂路(しげちしげみち)」,草木茂盛之藪道。
「道(みち)は廣(ひろ)けむ」,道路會為你敞開。蘊含不需畏懼人目之暗喻。
鼓勵不敢來會之男子之曲。

3882 【承前,四首第二。】
 澀谿乃 二上山爾 鷲曾子產跡云 指羽爾毛 君之御為爾 鷲曾子生跡云
 澀谿(しぶたに)の 二上山(ふたがみやま)に 鷲(わし)そ子產(こう)むと云(い)ふ 翳(さしば)にも 君(きみ)が御為(みため)に 鷲(わし)そ子產(こう)むと云(い)ふ
 鳳凰鳴矣兮 越中澀谿二上山 人云鷲鷹產子矣 當可為翳料 蓋是以君畏人目 鷲鷹為汝產子也
佚名 3882

「澀谿(しぶたに)」、「二上山(ふたがみやま)」,在越中國高岡。高岡之名典出詩經「鳳凰鳴矣于彼高岡」。
「翳(さしば)」,儀式之際,於貴人後方所掩之長柄團扇。多以鳥羽、薄絹所製。
「君(きみ)が御為(みため)に」,此君或指國守、大領之疇。

3883 【承前,四首第三。】
 伊夜彥 於能禮神佐備 青雲乃 田名引日須良 霂曾保零【一云,安奈爾可武佐備。】
 彌彥(いやひこ) 己神(おのれかむ)さび 青雲(あをくも)の 棚引日(たなびくひ)すら 小雨細降(こさめそほふ)る【一云(またにいふ)、あなに神(かむ)さび。】
 越後彌彥山 自成神古蘊稜威 縱雖青雲之 霏霺高掛棚引日 依舊小雨細降矣【一云,妍哉神古蘊稜威。】
佚名 3883

「己神(おのれかむ)さび」,「己(おのれ)」指彌彥神社神體山彌彥山之本性。
「青雲(あをくも)の」,上代語之「青(あを)」未必單指青、藍等色,亦包含灰色、薄墨色等。
「棚引日(たなびくひ)すら」,原文古寫本作「田名引日良」,此依『萬葉代匠記』補「須」字。
「細降(そほふ)る」,按日葡辭書:「細雨降狀」。
「あなに神(かむ)さび」,第二句之異傳。「あなに」乃讚嘆時所發之副詞。

3884  【承前,四首第四。】
 伊夜彥 神乃布本 今日良毛加 鹿乃伏良武 皮服著而 角附奈我良
 彌彥(いやひこ) 神麓(かみのふもと)に 今日(けふ)らもか 鹿伏(しかのふ)すらむ 裘著(かはごろもき)て 角付(つのつ)きながら
 越後彌彥之 御神體山神麓處 想必今日者 亦有野鹿伏之哉 恬然著裘披毛衣 付角自適能自樂
佚名 3884

「神麓(かみのふもと)」,將彌彥山尊為神之表現。
「今日(けふ)ら」,「ら」為接尾語。
「裘(かはごろも)」,以毛皮做成之大衣。
蓋附屬於傳於彌彥神社近鄉之鹿舞之歌謠。萬葉集中唯一的佛足石歌體之曲。越中之歌,述及越後地方之山者,表示歌曲之口傳亦遍布地元以外之處。

3885 乞食者詠二首
 伊刀古 名兄乃君 居居而 物爾伊行跡波 韓國乃 虎云神乎 生取爾 八頭取持來 其皮乎 多多彌爾刺 八重疊 平群乃山爾 四月 與五月間爾 藥獦 仕流時爾 足引乃 此片山爾 二立 伊智比何本爾 梓弓 八多婆佐彌 比米加夫良 八多婆左彌 完待跡 吾居時爾 佐男鹿乃 來立嘆久 頓爾 吾可死 王爾 吾仕牟 吾角者 御笠乃波夜詩 吾耳者 御墨坩 吾目良波 真墨乃鏡 吾爪者 御弓之弓波受 吾毛等者 御筆波夜斯 吾皮者 御箱皮爾 吾宍者 御奈麻須波夜志 吾伎毛母 御奈麻須波夜之 吾美義波 御鹽乃波夜之 耆矣奴 吾身一爾 七重花佐久 八重花生跡 白賞尼 白賞尼
 從兄弟(いとこ) 汝背君(なせのきみ) 居居(をりを)りて 物(もの)にい行(ゆ)くとは 韓國(からくに)の 虎(とら)と云(い)ふ神(かみ)を 生捕(いけど)りに 八捕持來(やつとりもちき) 其皮(そのかは)を 疊(たたみ)に刺(さ)し 八重疊(やへたたみ) 平群山(へぐりのやま)に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間(ま)に 藥狩(くすりがり) 仕(つか)ふる時(とき)に 足引(あしひき)の 此片山(このかたやま)に 二立(ふたつた)つ 櫟(いちひ)が本(もと)に 梓弓(あづさゆみ) 八手挾(やつたばさ)み 冰目鏑(ひめかぶら) 八手挾(やつたばさ)み 鹿待(ししま)つと 我(わ)が居(を)る時(とき)に 小雄鹿(さをしか)の 來立嘆(きたちなげ)かく 忽(たちま)ちに 我(われ)は死(し)ぬべし 大君(おほきみ)に 我(われ)は仕(つか)へむ 我(あ)が角(つの)は 御笠材(みかさのはやし) 我(あ)が耳(みみ)は 御墨坩(みすみつほ) 我(あ)が目等(めら)は 真澄鏡(ますみのかがみ) 我(あ)が爪(つめ)は 御弓弓弭(みゆみのゆはず) 我(あ)が毛等(けら)は 御筆材(みふみてはやし) 我(あ)が皮(かは)は 御箱皮(みはこのかは)に 我(あ)が肉(しし)は 御膾材(みなますはやし) 我(あ)が肝(きも)も 御膾材(みなますはやし) 我(あ)が胘(みげ)は 御鹽材(みしほのはやし) 老(お)いたる奴(やつこ) 我(あ)が身一(みひと)つに 七重花咲(ななへはなさ)く 八重花咲(やへはなさ)くと 申(まを)し榮(はや)さね 申(まを)し榮(はや)さね
 從兄弟也矣 親也汝兄君 屈身居居而 當往何處去也哉 海外韓國之 名謂猛虎威神矣 活捉生捕而 八軀獵捕以持來 手執其皮而 縫紉交刺為敷疊 以為八重疊 在於彼處平群山 卯月四月起 以及皐月五月間 主君催藥獵 奉侍彼藥狩之時 足曳勢險峻 於茲片山陡坡間 兩木並立之 櫟樹之下根本處 振弦兮梓弓 取其八張挾脇間 姬矢冰目鏑 執其八張挾脇間 在我所居此處時 嘆願小雄鹿 可以來立為所獲 倏忽不久後 嗚呼吾必將死哉 奉為我大君 我必捉取斷其襲 巍峨吾角者 將為御笠料材哉 聳立吾耳者 當為御墨坩 炯炯吾目等 可為無曇真澄鏡 尖銳吾爪者 以為御弓弓弭哉 復吾柔毛等 將作御筆料材哉 滑順吾皮者 可作御箱之皮矣 又吾身宍者 必為御膾之材矣 吾肝臟腑者 亦為御膾材也哉 吾胘胃袋者 必為御鹽辛材矣 此身雖年老 然取自吾一身而 以為七重花可咲 以為八重花可咲 如是申之譽彌榮 如是申之譽彌榮
乞食者 3885
 右歌一首,為鹿述痛作之也。

「從兄弟(いとこ) 汝背君(なせのきみ)」,從兄弟為親戚近緣者,「汝背」乃對於親暱男子之稱呼。
「物(もの)にい行(ゆ)くとは」,「物(もの)」為對場所之漠然指示,「とは」表對於以下出於預料之發展。
「虎(とら)と云(い)ふ神(かみ)」,以荒神表示口傳虎之威猛。『欽明紀』有「汝威神(かしこきかみ)」之表現。
「疊(たたみ)に刺(さ)し」,「疊(たたみ)」為敷物之總稱,「刺(さ)し」表縫製。
「八重疊(やへたたみ)」,「居居(をりを)りて」至此句乃「平群」之序。
「藥狩(くすりがり) 仕(つか)ふる時(とき)に」,官方藥狩在五月,民間則自四月開始有行事。
「片山(かたやま)」,山陡峭之斜面。
「冰目鏑(ひめかぶら)」,鏑矢之一。
「我(われ)は仕(つか)へむ」,本曲與此曲,作為食用而被殺之動物,不感痛苦甚至表達歡愉之表現。
「材(はやし)」,材料。
「御墨坩(みすみつほ)」,大工用以畫墨線之道具,蓋以鹿耳形狀之比喻用法。
「真澄鏡(ますみのかがみ)」,以鹿目聯想之比喻用法。
「御筆材(みふみてはやし)」,「筆(ふみて)」乃「筆(ふで)」之古形。
「膾(なます)」,細刻鳥獸魚貝生肉之料理。
「胘(みげ)」,牛、鹿之胃袋纖維組織。
「御鹽(みしほ)」,鹽辛之略。
「七重花咲(ななへはなさ)く」,此云種種活用。
「申(まを)し榮(はや)さね」,奏上已獲得讚賞。

3886 【承前。】
 忍照八 難波乃小江爾 廬作 難麻理弖居 葦河爾乎 王召跡 何為牟爾 吾乎召良米夜 明久 吾知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日今日跡 飛鳥爾到 雖立 置勿爾到 雖不策 都久怒爾到 東 中門由 參納來弖 命受例婆 馬爾己曾 布毛太志可久物 牛爾己曾 鼻繩波久例 足引乃 此片山乃 毛武爾禮乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異爾干 佐比豆留夜 辛碓爾舂 庭立 手碓子爾舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂來弖 陶人乃 所作缻乎 今日徃 明日取持來 吾目良爾 鹽柒給 腊賞毛 腊賞毛
 押照(おしてる)や 難波小江(なにはのをえ)に 廬作(いほつく)り 隱(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召(おほきみめ)すと 何為(なにせ)むに 我(わ)を召(め)すらめや 明(あきら)けく 我(わ)が知(し)る事(こと)を 歌人(うたびと)と 我(わ)を召(め)すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我(わ)を召(め)すらめや 琴彈(ことひ)きと 我(わ)を召(め)すらめや 彼此(かもかく)も 命受(みことう)けむと 今日今日(けふけふ)と 明日香(あすか)に至(いた)り 立(た)つとも 置勿(おくな)に至(いた)り 策(つ)かねども 都久野(つくの)に至(いた)り 東(ひむがし)の 中御門(なかのみかど)ゆ 參來(まゐりき)て 命受(みことう)くれば 馬(うま)にこそ 絆縛(ふもだしか)く物(もの) 牛(うし)にこそ 鼻繩著(はななはは)くれ 足引(あしひき)の 此片山(このかたやま)の 末榆(もむにれ)を 五百枝剝垂(いほえはきた)り 天照(あまて)るや 日異(ひのけ)に干(ほ)し 囀(さひづ)るや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭(には)に立(た)つ 手臼(てうす)に搗(つ)き 押照(おしてる)や 難波小江(なにはのをえ)の 初垂(はつた)りを 辛(から)く垂來(たれき)て 陶人(すゑひと)の 作(つく)れる瓶(かめ)を 今日行(けふゆ)きて 明日取持來(あすとりもちき) 我(あ)が目等(めら)に 鹽塗給(しほぬりたま)ひ 腊料(きたひはや)すも 腊料(きたひはや)すも
 日光押照兮 澪標難波小江矣 結廬在江畔 隱居覓蹤棲於此 藻屑葦蟹矣 吾皇大君召汝命 何故何為哉 聖君竟欲召我耶 顯明灼然而 吾知己身不足數 或為詠歌人 所以賜詔召我哉 或為吹笛人 所以宸旨召我哉 或為彈琴人 所以君命召我哉 或彼或此而 應當受命負此身 今日且今日 來至飛鳥明日香 豎直當佇立 臨至莫措置勿地 突杖雖不策 臻至築怒都久野 自於內裏之 東向門戶中御門 參上以來而 恭奉承旨受命者 若身為馬者 應當縛絆不自縱 若身為牛者 當著鼻繩為所牽 足曳勢險峻 於茲片山陡坡間 所生末榆矣 五百枝剝垂而吊 天照覽國中 每為烈日晒而干 言語雜囀兮 每為韓臼搗而碎 据立在庭中 復為手臼搗為末 日光押照兮 澪標難波小江矣 初垂滷水矣 鹽辛垂來相混而 須惠陶人之 勤奮所作此瓶矣 今日行而賈 明日取以持來也 於我雙目上 塗予精鹽賜醃製 以為腊料譽彌榮 【以為腊料譽彌榮。】
乞食者 3886
 右歌一首,為蟹述痛作之也。

「押照(おしてる)や」,「難波(なには)」之枕詞。
「廬作(いほつく)り」,「廬(いほ)」乃小屋,指示蟹巢之擬人表現。
「葦蟹(あしがに)」,蓋為淡水藻屑蟹。
「何為(なにせ)むに」,為何。
「我(わ)を召(め)すらめや」,「らめや」通常表反語,此為例外。
歌人(うたびと)」,諸國貢上,詠唱於宮廷之歌手、樂人。『養老令』職員令有「歌人四十人,歌女一百人。」「笛工。釋云,笛工謂笛吹也。」
「今日今日(けふけふ)と」,用以修飾「明日香(あすか)」之即興枕詞。
「明日香(あすか)に至(いた)り」,此歌之原型當起自飛鳥京為首都之時。
「立(た)つとも」,用以修飾地名「置勿(おくな)」之即興枕詞。「置勿(おくな)」所在未詳。
「策(つ)かねども」,用以修飾地名「都久野(つくの)」之即興枕詞。「策(つ)」或為「衝(つ)、突(つ)」之意。
「東(ひむがし)の 中御門(なかのみかど)」,相當於平安京之待賢門。面向東一坊之東邊中門。
「絆縛(ふもだしか)く物(もの)」,「絆(ふもだし)」乃「褌」之古名,或指蟹腹部之蓋板。此云以繩繫住蟹之胴體而懸吊。
「鼻繩著(はななはは)くれ」,「著(は)く」為下二段活用動詞,附著、配戴之意。
「末榆(もむにれ)」,榆科落葉高木。搗碎其白皮為粉末,可為調味料。
「五百枝剝垂(いほえはきた)り」,末榆之採集法。『新撰字鏡』有「二月,採白皮曝曬。」
「天照(あまて)るや」,日之枕詞。
「日異(ひのけ)に」,或為「日(ひ)に異(け)に」之訛。
「囀(さひづ)るや」,「韓」之枕詞。
「韓臼(からうす)」,足踩機關,採重石自上方落下以搗物之構造。
「手臼(てうす)に搗(つ)き」,以手杵搗物之臼。以上為製造末榆之工程。
「初垂(はつた)りを」,製鹽之際,最初滴下之濃縮滷水。
「陶人(すゑひと)の」,陶器工人。
「腊(きたひ)」,不取出魚貝類之內臟,直接曬乾醃製食品。
此歌蓋裝扮為蟹姿舞踊者之謠曲。

3887 怕物歌三首
 天爾有哉 神樂良能小野爾 茅草苅 草苅婆可爾 鶉乎立毛
 天(あめ)に在哉(あるや) 神樂良小野(ささらのをの)に 茅草刈(ちがやか)り 草刈量(かやかりばか)に 鶉(うづら)を立(た)つも
 高天原之上 神樂良之小野間 屈身苅茅草 在於苅草田域間 鶉鳥振翅翔去矣
佚名 3887

「天(あめ)に在哉(あるや) 神樂良小野(ささらのをの)」,「や」為間投助詞。蓋為空想世界之地名。
「草刈量(かやかりばか)」,苅草之場所。「量(ばか)」為分內。
「鶉(うづら)を立(た)つも」,躲藏於深草中之鶉鳥,受人驚擾而飛去之狀。

3888 【承前。】
 奧國 領君之 柒屋形 黃柒乃屋形 神之門渡
 沖國(おきつくに) 領(うしは)く君(きみ)の 塗屋形(ぬりやかた) 丹塗屋形(にぬりのやかた) 神門渡(かみのとわた)る
 千尋滄溟後 所領澳國冥王之 漆塗屋形船 黃赤丹塗屋形之 渡越神門穿海峽
佚名 3888

「沖國(おきつくに)」,大海彼端之常世國,死者靈魂所棲息之冥界。
「領(うしは)く君(きみ)の」,領有支配冥界之冥王。
「塗屋形(ぬりやかた) 丹塗屋形(にぬりのやかた)」,塗為赤色之屋形船。底本原文「染屋」蓋「柒(漆)屋」之訛。

3889 【承前。】
 人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之雨夜乃 葉非左思所念
 人魂(ひとたま)の 佐青(さを)なる君(きみ)が 唯獨(ただひとり) 逢(あ)へりし雨夜(あまよ)の 葉非左(未詳)し思(おも)ほゆ
 人魂之所如 面色鐵青貌黯然 與君唯一人 倏然相逢雨夜之 葉非左兮令所念
佚名 3889

「人魂(ひとたま)の」,「の」為如是之意。
「逢(あ)へりし」,忽然相遇、出現。
「葉非左(未詳)し思(おも)ほゆ」,難訓。有多說。原文「葉非左思所念」類聚古集作「葉非戶思所念」,尼崎本訓「はへとそおもふ」。

真字萬葉集 卷十六 有由緣,并雜歌 終
真字萬葉集 卷十七 雜歌、大伴家持作歌
雜歌、大伴家持作歌

3890 天平二年庚午冬十一月,大宰帥大伴卿被任大納言。【兼帥如舊。】上京之時,傔從等別取海路入京。於是悲傷羈旅,各陳所心,作歌十首 【十首第一。】
 和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 安麻乎等女登母 多麻藻可流美由
 我(わ)が背子(せこ)を 我(あ)が松原(まつばら)よ 見渡(みわた)せば 海人娘子共(あまをとめども) 玉藻刈(たまもか)る見(み)ゆ
 我待夫子兮 身居吾之松原間 放眼望去者 勤奮海人娘子等 苅集玉藻今可見
三野石守 3890
 右一首,三野連石守作。

「傔從」,護衛高官之從者。
「我(わ)が背子(せこ)を」,以「我(わ)が待(ま)つ」為「我(あ)が松原(まつばら)」之枕詞。
「我(あ)が松原(まつばら)よ」,「よ」與「より」同。伊勢有吾之松原,不確定與本歌所述為同所與否。

3891 【承前,十首第二。】
 荒津乃海 之保悲思保美知 時波安禮登 伊頭禮乃時加 吾孤悲射良牟
 荒津海(あらつのうみ) 潮干潮滿(しほひしほみ)ち 時(とき)は有(あ)れど 何時(いづれのとき)か 我(あ)が戀(こ)ひざらむ
 稜威荒津海 其潮有漲有退時 海象雖有期 然而吾身戀慕者 豈有片刻稍息時
旅人從者 3891

「荒津海(あらつのうみ)」,今福岡中央區西公園附近之海。
「時(とき)は有(あ)れど」,雖然海潮有漲有退,自己情意莫有歇時。