拾遺和歌集、万葉集試訳

拾遺和歌集 卷第九 雜歌下
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万葉集試訳

4224 【幸芳野宮時藤原皇后御作。】
 朝霧之 多奈引田為爾 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戶能波義
 朝霧(あさぎり)の 棚引(たなび)く田居(たゐ)に 鳴雁(なくかり)を 留得(とどめえ)む哉(かも) 我(わ)が宿萩(やどのはぎ)
 拂曉朝霧之 霏霺棚引田居間 經此鳴雁者 可否令彼駐足哉 吾宿所咲秋萩矣
光明皇后 4224
 右一首歌者,幸於芳野離宮之時,藤原皇后御作。但年月未審詳。
 十月五日,河邊朝臣東人傳誦云爾。

「朝霧(あさぎり)の 棚引(たなび)く田居(たゐ)に」,「田居(たゐ)」為田畝。「居(ゐ)」乃將水堰止之處,此為水田。
「留得(とどめえ)む哉(かも)」,秋萩開花之際,較秋雁來鳴稍早或近乎同時,此蘊含希望萩花慰留飛雁不令其離去之希求。
「我(わ)が宿萩(やどのはぎ)」,蓋云平城京內或皇后宮庭院所咲之萩花

4225 【大伴家持餞朝集使秦石竹作歌。】
 足日木之 山黃葉爾 四頭久相而 將落山道乎 公之超麻久
 足引(あしひき)の 山黃葉(やまのもみち)に 雫合(しづくあ)ひて 散(ち)らむ山路(やまぢ)を 君(きみ)が越(こ)えまく
 足曳勢險峻 深山黃葉織錦紅 其與時雨雫 交混零落彼山路 汝今起程將越哉
大伴家持 4225
 右一首,同月十六日,餞之朝集使少目秦伊美吉石竹時,守大伴宿禰家持作之。

「山黃葉(やまのもみち)に 雫合(しづくあ)ひて」,山上紅葉與時雨一同散落。
「散(ち)らむ山路(やまぢ)」,「山路」指自越中經越前、近江、山城而至平城之道。
「君(きみ)が越(こ)えまく」,「越(こ)えまく」為「越(こ)えむ」之く句法。詠嘆終止形。

4226 雪日作歌一首
 此雪之 消遺時爾 去來歸奈 山橘之 實光毛將見
 此雪(このゆき)の 消殘(けのこ)る時(とき)に 去來行(いざゆ)かな 山橘(やまたちばな)の 實照(みのて)るも見(み)む
 當趁此雪之 尚未消融仍殘時 去來赴彼處 觀望朱紅山橘之 結實輝耀映皓雪
大伴家持 4226
 右一首,十二月大伴宿禰家持作之。

「去來行(いざゆ)かな」,「去來(いざ)」為邀請人時自身亦率先行動而發之感嘆詞。「な」有勸誘、意志兩用法,此為前者。
「實照(みのて)るも見(み)む」,「照(て)る」同「照(て)らる」。家持自詠之4471亦為類似語境。

4227 【三形沙彌贈左大臣歌。】
 大殿之 此迴之 雪莫踏禰 數毛 不零雪曾 山耳爾 零之雪曾 由米緣勿 人哉 莫履禰 雪者
 大殿(おほとの)の 此迴(このもとほり)の 雪莫踏(ゆきなふ)みそね 屢(しばしば)も 降(ふ)らぬ雪(ゆき)そ 山(やま)のみに 降(ふ)りし雪(ゆき)そ 努寄(ゆめよ)る莫(な) 人(ひと)や 莫踏(なふ)みそね 雪(ゆき)は
 北卿大殿之 緣際周遭此迴間 所以積雪願莫踏 其雪非常有 亦非屢屢可降也 為在深山中 方得易遇零雪也 願人切莫輙近之 願勿輙踏此雪矣
三形沙彌 4227

「大殿(おほとの)」,蓋云北卿藤原房前宅邸。
「此迴(このもとほり)の」,周邊。
「雪莫踏(ゆきなふ)みそね」,「そね」表希求。歌中七音句連續實屬特例,或為歌謠之特有自由詩式。
「山(やま)のみに」,此云降雪稀有可貴,就算偶爾下雪也多半在深山之中。

4228 反歌一首 【承前。】
 有都都毛 御見多麻波牟曾 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曾禰
 在(あり)つつも 見(め)し給(たま)はむそ 大殿(おほとの)の 此迴(このもとほり)の 雪莫踏(ゆきなふ)みそね
 願能留此景 得以久觀常翫矣 由衷有所願 北卿大殿此迴間 積降零雪莫踏之
三形沙彌 4228
 右二首歌者,三形沙彌承贈左大臣藤原北卿之語作誦之也。聞之傳者,笠朝臣子君。復後傳讀者,越中國掾久米朝臣廣繩是也。

「在(あり)つつも」,希望維持此一狀態,此云不欲積雪消融,願其久存。
「見(め)し給(たま)はむそ」,「見(め)し」為「見(み)る」之敬語型。

4229 天平勝寶三年
 新 年之初者 彌年爾 雪踏平之 常如此爾毛我
 新(あらた)しき 年初(としのはじめ)は 彌年(いやとし)に 雪踏平(ゆきふみなら)し 常如是(つねかく)に欲得(もが)
 一元更復始 紫氣東來萬象新 每逢新年初 踏平積雪迎春暖 欲得歲歲常如是
大伴家持 4229
 右一首歌者,正月二日,守館集宴。於時,零雪殊多,積有四尺焉。即主人大伴宿禰家持作此歌也。

「常如是(つねかく)に欲得(もが)」,「如是(かく)」指聚集國司郡司宴飲,眾人踏平積雪之盛狀。


[趣味雑談]摘譯三島由紀夫

■[摘譯] 三島由紀夫

猫。あの憂鬱な獸が好きでせうが無いのです。藝を覺えないのだつて、覺えられないのでは無く、そんな事は莫迦らしいと思つてゐるので、あの小賢しい拗ねた顔付き、綺麗な歯並、冷たい媚、何んとも言へず私は好きです。

貓。我無可自拔地愛著那憂鬱的野獣。其不學藝,絕非學之不來,實視該類愚蠢而已。那的狡頡的容貌,美麗的瑞齒,冷淡的媚態,無一不令我莫名地為之著迷。

私は猫が大好きです。理由は猫といふヤツが、実に淡々たるエゴイストで、忘恩の徒であるからで、しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり、悪質な人間のやうに、恩を仇で返すことなどありません。

吾好貓者甚也。何以?凡貓之疇,實皆利己主義,而忘恩之徒矣。然吾有所思,貓者皆止於忘恩,而未有恩將仇報如人類者。

私は書斎の一隅の椅子に眠つてゐる猫を眺める。私はいつも猫のやうでありたい。
その運動の巧緻、機敏、無類の柔軟性、絶対の非妥協性と絶妙の媚態、絶対の休息と目的に向かつて駈出す時の恐るべき精力、
卑しさを物ともせぬ優雅と、優雅を物ともせぬ卑しさ、いつも卑却である事を怖れない勇気、
高貴であつて野蠻、野性に対する絶対の誠実、完全な無関心、残忍で冷酷……
これら様々の猫の特性は、芸術家がそれをそのまま座右銘にして少しもおかしくない。

三島由紀夫【裸體與衣裳】

我眺望著睡在書齋一隅的椅子上的猫兒。我總是希望能和貓一樣。
其運動之巧緻、機敏、無以倫比之柔軟性、絕對的非妥協性與絕妙的媚態,朝向絕對休憩與目的而馳騁之時那令人生畏的精力,
無視卑俗的優雅,與無視優雅的卑俗,往往不畏卑怯的勇気。
高貴而野蠻,對於野性的絕對誠實,完全的事不關己,殘忍而冷酷……
以上種種貓的特性,作為藝術家之座右銘,沒有絲毫不妥。

猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。

無論觀看何事,貓皆以貓之視點觀之。一如美髮師無論觀看電影、電視,都不免在意人頭一般。世中必無絕對公平、客観的見地。吾等咸皆帶著有色的眼鏡。

私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は最も派手な、華やかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。

無論如何,我認為黒髮的女性是最為美麗的。儘管洋服將受髪色制約,女性的黑髮卻是最為華麗、鮮豔的顏色。如是,身穿黑服的黑髮女性,便堪稱世上最為奢華的美吧。

竊以為,濡烏黑髮之女性,最為美麗。縱令洋服受髪色所制,女性黑髮卻為殊麗之豔色。如斯,身著黑裳,頭戴烏絲之女性,堪稱世上殊美而可哉。

法律が私の恋文になり牢屋が私の贈物になる。

「法律即為吾之戀文,囹圄洽作我之餽贈。」

「武」とは花と散る事であり、「文」とは不朽の花を育てる事だ(…)不朽の花とは即ち造化である。
三島由紀夫『太陽と鐵』

隨花殞落為「武」,育花不朽為「文」。不朽之花,是即造化。

決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

吾等之可能,因受侷定而化作無限。吾等之飛翔,因逢阻止而化作永遠。

精神を凌駕する事の出來るのは習慣と云ふ怪物だけなのだ。

得以凌駕精神者,唯有名喚習慣之怪物爾。

我々男性は少年時代から、女よりも遥かに自由な自我の世界に住んでゐるが、その癖持前の社会適応性から、却つて女よりも盲目的な服従に陥る事が多い。
三島由紀夫『男というものは』

我等男性自少年時代起,即棲身於遠較女性自由且自我之世界。然而,卻因那社會適應性之故,反而遠較女性更容易陷入盲目的服従

無智者は、自ら美しくもなく、善くもなく、聡明でもないくせに、それで自ら十分だと満足している。自ら欠乏を感じていないから、その欠乏を感じていないものを、欲求する筈がないのである。

三島由紀夫『芸術にエロスは必要か』

無智者,自身不美、不善、不慧,卻自以為十分而滿足。以己不感闕乏,自無其所欲求。

人體が美しく無く成つたのは、男女の人體が自然の與へた機能を逸脱し、或いは文明の進歩に依つて、さう云ふ機能を必要とし無く成つたからである。

三島由紀夫『機能と美』

人體之所以不復美麗,乃因男女之人體已然逸脱自大自然所賦予之機能,或因文明之進步,而此類機能不復需要所致。

人間の政治、いつも未来を女の太腿のように猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒へ向って人々を鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まろうとするあの政治、……


三島由紀夫『美しい星』

人類的政治,往往讓人猥褻地瞥見未來,洽如見到女性大腿走光一般。以夢、希望、「更好」為餌,彷若在馬前懸吊蘿蔔,鞭打眾人航向未來之黑暗,自分則停留於現在薄明之間的政治……

皮肉な事に愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望むだ物は必ず得られず、しかも來無い事得られぬ事の原因が、正に待つ事・望む事自体に在ると云ふ構造を持つてゐる。

三島由紀夫『美しい星』

諷刺也矣,愛之悖論者,所俟必不至,所望必不得,然就其構造原理論,不至、不得者,恰為所以苦待、切望之因。

其時、私は蛇を見たのだ。地球を取巻いてゐる白い雲の、繋がり繋がつて自らの尾を嚥んでゐる、巨大と云ふも愚かな蛇の姿を。

三島由紀夫『太陽と鉄』

方時,我見到了蛇。那包圍著地球的白雲,延延不絕地交聯而銜尾。那即便用巨大來形容亦難以言喻的碩蛇之姿。

老人と若者の違ひは簡單な事で、老人は此世中が変はる事を知つてゐるから、強ひて變へやうともし無いし、若者は此世中が變はら無いと思ひ詰めてゐるから、性急に變へやうと努力する。

[世の中は]老人が考へるやうに「自然に」変はつたのでも無ければ、若者の考へるやうに革新の力によつて変はつたのでも無い。両者の力が程程に働いて、希望は裏切られ、目的は逸らされ、老人にとつても若者にとつても、百パーセント満足と云ふ結果には決してならずに、変はるのである。

三島由紀夫『文学的予言』

老稚之差,顯然易見。老人悉知世間無常,不強求變。稚少以為世間永恆,汲汲求易。

娑婆世中,既不若老人心中自然變異,亦不猶稚以為非藉革新之力而不動。
兩者之力,相互拉扯。希望遭叛,目的脫逸。
或老或稚,世之遞嬗者,必以咸皆遺憾之結果而改易。

男たちの漠然としたニヒリズムは何處から来るのでせうか?男は一度女に自分の種子を植ゑつけたが最後、もう種族の使命を終はつたやうなものですから、その時から、男の、永い永い、得体の知れぬニヒリズムが始まるのです。


三島由紀夫『反貞女大学』

男性漠然之虛無主義源自何處?男性一旦將自身之精種播於女體,其基於物種之使命業已完遂。是以,自方時起,男性亙久無涯而莫名之虛無主義,遂油然而生。

愛国心」というのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
三島由紀夫愛国心

「愛國心」無以理喻。何以?夫愛國之心,即是藉國境自限之愛也。

太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の叙事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかし未だ予見されるに留まつております。感性の一歩手前で崩れて了ひさうな太宰氏一流の妙な不安が未だこびり付いてゐます。
三島由紀夫川端康成宛書簡」

太宰治氏「斜陽」,第三回亦深受銘感而閱畢。近於滅亡之叙事詩,其卓越藝術之完遂已可預見。然而,卻止步於得以預見之次。在感性之前功虧一簣,太宰氏那一流的詭異不安,依舊形影不離。

血が必要なんだ!人間の血が!そうしなくちゃ、この空っぽの世界は蒼ざめて、枯れ果ててしまうんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取って、死にかけている宇宙、死にかけている空、死にかけている森、死にかけている大地に輸血してやらなくちゃいけないんだ。今だ!今だ!今だ!-午後の曳航-


三島由紀夫『午後の曳航』

血是必要的!人類的血!非茲不可。這空虛的世界,蒼褪憔悴,枯竭將盡。吾等當擰取該男子活力充沛之血液,替那瀕死之宇宙,彌留之穹空,大漸之森林、残喘之大地輸血不可。現在!現在!現在!

我々は出来れば何でも打明けられる友達が欲しい。どんな秘密でも頒つ事の出来る友達が欲しい。しかしさう云ふ友達こそ、相手の尻尾も確り掴んでゐ無ければ危険である。相手の尻尾を完全に掴んだと判る迄、自分の全部を曝出す事は、常に危険である。

三島由紀夫『私の嫌いな人』

可能的話,我們希望能有披肝瀝膽、推心置腹的朋友。然而這類友人,若非抓住其辮子,則危險異常。在尚未透析其一切,而貿然開誠布公,往往是極度危險的。

「文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。」

文學也好,其餘也罷。不以簡明為美德之世,為犬噬之而可矣。

われわれの古典文学では、紅葉や桜は、血潮や死のメタフォアである。

吾等古典文學之間,紅葉與櫻,便是血潮與死之隱喻。

「犯罪が近づくと夜は生き物になるのです。僕はかういふ夜を沢山知つてゐます。夜が急に脈を打ちはじめ、温かい体温に充ち……とどのつまりは、その夜が犯罪を迎へ入れ犯罪と一緒に寝るんです。時には血を流して……」

「每當犯罪逼近,晚夜則仿若受生。如斯之夜,我悉知之甚。晚夜倏然鼓動其脈搏,體溫俄然為溫熱之血潮所充盈……最終,晚夜迎納犯罪入門,與之共寢。時而流血……」

知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し 肉化する力を失ふのである。

屬智者,若非常時曝於對極之事物,則衰弱亡逝。其已然喪失了將己身具體化、肉化之力。

かつて太陽を浴びていたものが日蔭に追いやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるようになった。

三島由紀夫『革命哲学としての陽明学

過去萬眾矚目者,被驅逐至陰闇之間。過往被視作英雄的行為而博得眾人稱讚者,如今在近代人本主義之視角下遭到責難。

三島由紀夫『作為革命哲學之陽明學』

救はれないと云ふ安心は何と云ふ救ひだ!

三島由紀夫『幸福といふ病気の療法』

名為無藥可救的安心感,是遠勝於萬物的救贖。

三島由紀夫『幸福病之療法』

 微笑が、西洋人には、實に氣味の悪い、謎に充ちた物に見える言は定評がある。しかし我我にとつては単純な問題である。悲しいから微笑する。困惑するから微笑する。腹が立つから微笑する。

三島由紀夫アメリカ人の日本神話』

 微笑看在西洋人眼裡,常有詭譎難懂,晦澀不明的論斷。然而對我等而言,卻是至極單純的問題。因悲傷而微笑,因困惑而微笑,因憤怒而微笑。

三島由紀夫『美利堅人的日本神話』

 若者の腕は、少女の体をすつぽりと抱き、二人はお互ひの裸の鼓動を聞いた。永い接吻は、充たされない若者を苦しめたが、或る瞬間から、この苦痛が不思議な幸福感に転化したのである。

三島由紀夫潮騒

 青年以手腕緊抱少女的身軀,相互聽聞對方赤裸的鼓動。悠永的接吻,令無以滿足的青年感到煎熬。這份煎熬,卻在某個瞬間轉化為難以理解的幸福感。

三島由紀夫潮騒

そこで母親が、失敗した善行のお陰で、孤獨に成つた。

三島由紀夫潮騒

於茲,母親藉善行失敗之功,獲得了孤獨。

これが恋であろうか?一見純粋な形を保ち、その後幾度となく繰り返されたこの種の恋にも、それ独特の堕落や頽廃がそなわっていた。それは世にある愛の堕落よりももっと邪悪な堕落であり、頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、一番悪質の頽廃だ。

三島由紀夫仮面の告白

這可堪稱戀情?這種一見保有純粹之形,往後幾度反覆之戀,具備著獨特的墮落與頹廢。其為遠較世間愛意之墮落更為邪悪之墮落。頹廢的純潔,在世間種種頹廢之中,堪稱最為悪質之頹廢。

が、唯一つ鮮やかな物が、私を目覺かせ、切無くさせ、私の心を故知らぬ苦しみを以て充たした。其は神輿の担手達の、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情だつた。……

三島由紀夫仮面の告白

然而,唯一鮮烈的事物,讓我覺醒、懊惱,令我的心胸為苦痛所充斥。就是擔負神輿之男子們,那舉世無雙的淫靡、灼然露骨的陶醉神情。……

 勿論、私は他の子供らしい物をも十分に愛した。アンデルセンで好きなのは「夜鶯」であり、又、子供らしい多くの漫画の本を喜んだ。しかしともすると私の心が、死と夜と血潮へ向かつて徃くのを、礙げる事は出来無かつた。

三島由紀夫仮面の告白

 當然,我也十分喜愛許多童趣之物。安徒生童話中,最喜歡的作品是「夜鶯」。而孩童項的漫畫,亦得我心。然而即便如此,這並不妨礙我的真情,那心向死亡、闇夜與血潮,豬突猛進的胸懷。

「その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色を湛へた。この巨大な・張り裂けるばかりになつた私の一部は、今までに無く激しく私の行使を待つて、私の無知を詰り、憤ろしく息衝いてゐた。私の手は知らず知らず、誰にも教へられぬ動きを始めた。私の内部から暗い輝やかしいものの足早に攻め昇つて来る気配が感じられた。と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴つて迸つた。」
三島由紀夫仮面の告白

「見到那幅畫的刹那,我的全存在,皆受到某種異教般的歡喜所推動、震撼。血液奔騰,器官精湛著憤怒之色。我那巨大,宛如撐破的部分,破天荒地等待著我去行使。斥責我的無知,義憤填膺地呼吸著。我的手在不知不覺間,無師自通地開始了激烈的舉動。我感受到來自身體深奧之處,那黑暗而光輝的東西,急速昇起攻訐之氣息。轉瞬之間,其隨著暈眩的酩酊,激越噴發。」

「その上まるで豊かな秋の収穫のやうに、私のぐるりにある夥しい死、戦災死、殉職、戦病死、戦死、轢死、病死のどの一群かに、私の名が予定されてゐない筈はないと思はれた。死刑囚は自殺をしない。どう考へても自殺には似合はしからぬ季節であつた。私は何ものかが私を殺してくれるのを待つてゐた。ところがそれは、何ものかが私を生かしてくれるのを待つてゐるのと同じことなのである。」

自己欺瞞が今や私の頼みの綱だつた。傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔である事を要求し無い。私はせめても使ひ慣れた自己欺瞞で出血を取押へて、病院へ向つて駈けて行きたいと思つた。」

三島由紀夫仮面の告白

「自我欺瞞,是我現在賴以維生的生命線。就適合傷者的繃帯而言,清潔絕非必要條件。我忙著以熟悉的自我欺瞞抑制出血,向醫院急馳。」

「私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。──私には全てがわかった。」

三島由紀夫《假面の告白》

「我以嘴唇捺上園子的香唇。一秒經過,索然無味。二秒逝去,依然如故。三秒之後,我洞悉了一切。」

バカという病気の厄介なところは、人間の知能と関係があるようでありながら、一概にそうともいいきれぬ点であります。-不道徳教育講座-

三島由紀夫『不道徳教育講座』

笨病麻煩之處,在於其似與人類智能有關,卻又難以一概論之之處。

仮面の告白」という拙作を読んだ方はご承知と思うが、私は病弱な少年時代から、自分が、生、活力、エネルギ—、夏の日光、等々から決定的に、あるいは宿命的に隔てられていると思い込んできた。この隔絶感が私の文学的出発点になった。
『ボクシングと小説』

想來讀過拙作『假面的告白』的各位應已了然。筆者自病弱的少年時代開始,就自命與生命、活力、能量、盛夏日光等等,存在著決定的或稱宿命的隔絕。此份隔絕感,便成為吾人文學的出発點。

三島由紀夫『拳擊與小說』

「およそ人間的な烈しい憎悪、嫉妬、怨恨、情熱の種々相は、氏の関知しないところであるかのようだ」 嘘である! 嘘である! 嘘である! -禁色-

三島由紀夫『禁色』

「舉凡人類激烈之憎惡、嫉妬、怨恨、情熱等諸相,好似皆盡坐落於與氏無關之境般。」謊言!誑語!虛說!

「それは精神によって築かれた顔というよりは、むしろ精神によって蝕まれた顔である。」

三島由紀夫『禁色』

「 與其稱之為由精神所構築的容貌,毋寧說是為精神所侵蝕的面龐。 」

愛してくれる女を幸福にしてやれない以上、不幸にしてやる事がせめてもの思い遣りであり精神的な贈物でもあると考える逆説に熱中した結果、何ものへ向かってとも知れぬ復讎の情熱を、仮に目前の恭子へ向けることに、露ほども道徳的呵責を感じないで居た。

三島由紀夫『禁色』

既然無法給予愛著自己的女性幸福,反過來令其不幸不啻是一種體諒與精神性的贈與。在熱中於此逆説之結果,將不知向何處抒發之復讎情熱,傾注於眼前的恭子身上,悠一絲毫不感到任何道徳的呵責。

渡辺稔:「……女なんて、何だい。股の間に不潔なポケットを仕舞い込んでやがるだけじゃないか。ポケットに貯まるのは塵芥ばっかりだ。」

三島由紀夫『禁色』

渡辺稔:「……女人算什麼?不過就是在跨下裝了個汙穢的口袋罷了。會積在口袋中的,只有垃圾而已。」

「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。」

三島由紀夫『禁色』

「愛人者,恆常寬大。被愛者,始終殘酷。」

齡五十にして、河田の望む幸福は、生活を蔑視する事である。

齡方五十,河田所求之幸者,無非蔑視生活而已。

「悠一君、この世には最高の瞬間というものがる」——と俊輔は言った。「この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ」-禁色-

三島由紀夫『禁色』

「悠一,世間有所謂至上之瞬。」俊輔說。「精神與自然所以和解、交合之瞬間。」「死無非事實。行為之死,或稱自殺。人無由依自身意志而生,卻得以依之而死。乃古來自然哲學之根本命題。無疑的,死得以藉由名為自殺之行為,展現與全生表現之同時性。表現至上之瞬,非俟死而不可。」
三島由紀夫『禁色』

私はといえば、目ばたきもせずに、有為子の顔ばかりを見つめていた。彼女は捕われの狂女のように見えた。月の下に、その顔は動かなかった。私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。しかるに有為子の顔は世界を拒んでいた-金閣寺-

三島由紀夫金閣寺

我毫不轉瞬地凝視著有為子的容貌。她看似被拿捕的狂女。明月之下,面龐毫不動搖。我至今未嘗見聞如此充溢拒絕之表情。竊以為,自己的容貌為世界所拒絕。然而有為子的容貌則拒絕著世界。

鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終ってしまったあとなのである。

三島由紀夫金閣寺

鈍感的人們,非遇流血而不覺狼狽。然而,流血之際,已在悲劇終焉之後。

「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃つた。埒も無い考へではあるが、其時、私の吃りは私の美の観念から生じた物では無いかと云ふ疑ひが脳裡を過つた。
「美は……美的な物はもう僕にとつては怨敵なんだ。」

三島由紀夫金閣寺

「所謂美……」正要啟口,卻為強烈地口吃所遮攔。雖然荒誕不經,但於此時,莫非我的口吃是源自己身對於美的概念之疑問,在腦中閃過。

「美……對我而言,麗美已是怨敵!」

「今迄遂ぞ思ひもし無かつた此の考へは、生れると同時に、忽ち力を増した。寧ろ私が其れに包まれた。其の想念とは、斯うであつた。 『金閣を焼かねばならぬ』」

三島由紀夫金閣寺

「至今為止,未嘗湧起之思緒,在降誕的同時,倏然大增其力。毋寧說,我為其所包攝。其想念者、如斯。 『非將金閣燒卻不可。』」

孤独が始まると、其に私は容易く馴れ、誰とも口を効かぬ生活は、私にとつて尤も努力の要らぬ物だと云ふ事が、改めて判つた。生への焦躁も私から去つた。死んだ毎日は快かつた。

三島由紀夫金閣寺

一旦陷入孤獨,我宛若如魚得水。我再度體會到,與人斷絕言語之生活,對我而言是最不需努力的事物。生活之焦躁離我遠去,槁木死灰的日日令人舒適無比。

私の足は捗ら無く成つた。思倦ねた末には、一體金閣を燒く為に童貞を捨てやうとしてゐるのか、童貞を失ふ為に金閣を燒かうとしてゐるの判ら無く成つた。其時、意味も無しに「天歩艱難」と云ふ高貴な單語が心に浮び、「天歩艱難天歩艱難」と繰返し呟きながら歩ひた。

三島由紀夫金閣寺

我的腳步不覺停滯。在反覆苦惱之末,究竟是為了燒卻金閣而將捨去童貞,抑或是為了捨去童貞而將燒卻金閣,已然無由辨知。方時「天歩艱難」這高貴的單語無由地在心中閃過。「天歩艱難、天歩艱難」如是反覆呢喃而漫然走著。

われわれはすべて幻のなかに生きている。幻がだんだん現実のなかへしみこんで来て、明日をも知れぬ世にわれわれは生きている。ついそこまでが幻なら、今だって幻だといえるのだ。-朱雀家の滅亡-

三島由紀夫『朱雀家の滅亡』

吾等吾輩,咸生息虛幻之間。虛幻漸漸侵入現實,吾等生息,在於不知明日之世。既然虛幻如斯,則現今亦堪稱虛幻。

もしかすると清顕と本多は、同じ根から出た植物の、まったく別のあらわれとしての花と葉であったかもしれない。-春の雪-

三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

也許,清顯與本多,恰是同根所生,表現卻殊然迥異之花與葉也說不定

彼は優雅の棘だ。しかも粗雑を忌み、洗煉を喜ぶ彼の心が、実に徒労で、根無し草のやうなものである事をも、清顕はよく知つてゐた。蝕もうと思つて蝕むのではない。犯さうと思つて犯すのではない。

三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

其乃優雅之棘。而且其忌諱粗雜,喜好洗煉之心,莫過徒勞無根草之疇,清顯亦有自知之明。既非心欲侵蝕而蝕之,亦非心欲侵犯而犯之。

別れていることが苦痛なら、逢っていることも苦痛でありうるし、逢っていることが歓びならば、別れていることも歓びであってならぬという道理はない。-春の雪-

三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

既然離別苦痛,相逢亦可為苦痛。若相逢是為歡愉,離別自無不可為歡愉之道理。

……高い喇叭の響きのようなものが、清顕の心に湧きのぼった。 『僕は聡子に恋している』  いかなる見地からしても寸分も疑わしいところのないこんな感情を、彼が持ったのは生れてはじめてだった。 『優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を』と彼は考えた。 -春の雪-

三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

……宛如高亮喇叭之響徹,自清顯之內心湧上。
『我愛上聰子了。』
此般如何審視,亦毫無疑問之情感,乃其受生以來所未嘗有之經驗。
『優雅是即犯禁,殊以至高之禁忌為尚。』清顯如斯思量。

……海は直ぐ其の目前で終る。 波の果てを見て居れば、其が如何に長い果てし無い努力の末に、今其處で敢へ無く終つたかが判る。其處で世界を廻る全海洋的規模の、一つの雄大極まる企図が徒労に終るのだ。
三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

……大海倏於其眼前告終。一旦見得滄溟之盡,便知亙久無涯努力之末,於今毫不猶豫地畫下句點。於茲那環繞世界全海洋規模,極其雄大之企圖,徒勞落幕。

「今、夢を見てゐた。又、會ふぜ。屹度會ふ。瀧の下で...」
三島由紀夫 豊饒の海(一)『春雪』

「方才,做了個夢。再會了。必能再會。在那千尋瀧壑之下...」

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼(まぶた)の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。

三島由紀夫 豊饒の海(二)「奔馬

洽在其以刀括腹之一瞬,旭日於瞼內赫奕而昇。

「これと云つて奇功のない、閑雅な、明るく開いた御庭である。數珠を繰るやうな蟬声が茲を領してゐる。その他には何一つ音とてなく、寂莫を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もない所へ、自分は來て了つたと本多は思つた。庭は夏の日盛りの日を浴びてしんとしてゐる...」

三島由紀夫 豊饒の海(四)『 天人五衰

「這是一處平凡無奇、閑雅明亮而開放的庭苑。猶如念珠般的蟬聲, 支配了一切。除此之外,毫無微音,寂莫至極。庭苑中一無所有。本多心想,自己竟到了一個既無記憶,亦無絲毫,虛無空亡之境地。庭苑受炎夏的盛日照臨,蕭然寂寥...」

一度自分の肉体的魅力を知った人間は、その日から、世間全体に向って、微妙な精神的売淫を始めます。世間はそれにお金か或いはもっと大事なものを支払うのです。アメリカでは、テレビでニヤッと笑う笑顔のよさ如何で政治家の人気が決り、大統領選挙にさえも響くそうです。これも一種の精神的淫売です。

三島由紀夫

人類一旦獲悉其肉體之魅力,便自該日起向著全世界,開始在精神層面上彆扭地賣淫。世上則對之支付金錢或更為珍貴之事物。於美國,如何在電視上露出爽朗的笑容,決定了政治家的聲望,其影響甚至能波及大統領選戰。這亦是一種精神性的賣淫。

身の動きが自由に成ると逸速く僕は驅寄つて廣間の一隅の小さなしかし重重しい木彫を施した扉を開けた。其れは奇妙な程容易く開いたので、僕は扉の間から頭を差入れて部屋の様子を覗ふ事が出來た。一瞬茲の廣間と全く同じやうな室内が覗かれた。と思ふ間も無く、僕は額を打付けた。扉の向ふには鏡が張詰られてゐたのである。
「ラディゲは鏡中へ入つて了つたのだ」と僕は痛みを堪へて獨言した。しかし僕は其中へは入れ無かつた。
一九四八、三、三〇。 

三島由紀夫ドルジェル伯の舞踏会・裸體と衣裳』

身體一恢復自由,我便急速衝向大廳一隅,打開那小巧而沉重,施加木彫的門扉。其扉意外地可以輕易打開,故我將頭顱伸入扉間,得以窺見房間的模樣子。一瞬,與此大廳如出一轍的室內望入眼簾。不消幾時,我的額頭激烈的撞上。門扉的對面,竟貼著鏡子。
「Radiguet 已遁入鏡中。」我忍受著痛楚獨言。然而,我卻無以涉入其間。
一九四八、三、三〇。 
三島由紀夫『d'Orgel伯爵舞會(Le Bal du comte d'Orgel)・裸體與衣裳』

 理智と官能との渾然たる境地にあつて、音楽をたのしむ人は、私には羨ましく思はれる。音楽会へ行つても、私は殆ど音楽を享楽する事が出来無い。意味内容の無い事の不安に耐へられ無いのだ。音楽が始まると、私の精神は慌しい分裂状態に見舞はれ、ベートーベンの最中に、昨日の忘れ物を思ひ出したりする。
音楽と云ふものは、人間精神の暗黒な深淵の淵の處で、戯れてゐる物のやうに私には思はれる。斯ういふ恐ろしい戯れを生活の愉楽に加添へ、音楽会や美しい客間で、音楽に耳を傾けてゐる人たちを見ると、私はさういふ人たちの豪胆さに驚らかずにはゐられ無い。
 音と云ふ形の無い物を、厳格な規律の元に統制した此の音楽なる物は、何か人間に捕へられ檻に入れられた幽霊と謂つた、物淒い印象を私に惹き起す。音楽愛好家達が、斯うした形の無い暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡明に信じ、安心して其の勝利に身を委ね、喝采してゐる点では、檻の中の猛獣の演技に拍手を送るサーカスの観客と變りが無い。しかしもし檻が破れたらどうするのだ。勝つてゐると見えた精神がもし敗北してゐたとしたら、どうすのだ。音楽会の客と、サーカスの客との相違は、後者が萬が一にも檻の破られる危険を考へてもみない所に在る。私はビアズレエの描いた「ワグネルを聽く人々」の、驕慢な顏立ちを思ひ出さずには居られない。
 作曲家の精神が、もし敗北してゐると仮定する。其の瞬間に音楽は有毒な恐ろしい物に成り、毒 ガス のやうな致死の効果を齎す。音は溢れ出し、聴衆の精神を、形の無い闇で、十重廿重に圍こんで了ふ。聴衆は自ら其と知らずに、深淵に突き落される......
 所で私は、何時も制作に疲れてゐるから、斯ういふ深淵と相渉るやうな楽しみを求め無い。音楽に對する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、と云ふ事に尽きる。だから私は食事の喧騒の間を流れる淺墓な音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さ無いのである。

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 何か藝術の享受に、サディスティックな物と、マゾヒスティックな物が有るとすると、私は明瞭に前者であるのに、音楽愛好家はマゾヒストなのでは無からうか。音楽を聞楽しみは、包まれ、抱擁され、刺される事の純粋な楽しみでは無からうか。命令してくる情感に只管受動的である事の歡びでは無からうか。如何なる種類の音楽からも、私は解放感を感じた事が無い。

三島由紀夫『小説家の休暇』音楽について

 我十分羨慕得以縱身理智、官能渾然境地而享受音楽之人。縱使參加音樂會,我也幾乎無法享樂音樂。我難以忍耐對不含意義之內容的不安。每當音楽開始,我的精神就陷入慌亂的分裂狀態。就是聆聽貝多芬的演奏,也會想起昨日紛失之物。
 竊以為,所謂音樂,恰如遊興於人類精神之暗黑深淵。每逢見到將這種玩火自焚的遊興加添於生活的愉樂,在音樂會富麗堂皇的大廳豎耳傾聽音樂者,筆者往往無法不詫異其豪膽。
 將名為音聲之無形物體,統制於嚴格規律之下的音樂,帶給我的印象,猶如遭捕獲而囚於牢籠間之幽靈般猛烈。音樂愛好家簡明地相信、作曲家精神勝利於如斯無形之黑暗,安心委身於此勝利之間,喝采鼓舞。這儼然與馬戲團觀眾對檻中猛獸之演技拍手無異。然而,若是牢籠破裂,該當何如?或是精神看似勝利,實則敗北,又當何如?音楽會與馬戲團觀眾的決定性差異,便在後者未嘗考慮萬一牢籠破損的危險。我無法不想起 Aubrey Vincent Beardsley 筆下「聆聽 Wagner 之眾人」那驕慢的容顏。
 假設作曲家的精神萬一敗北。轉瞬之間,音樂化作有毒之劇害,帶來如毒瓦斯般的致死力。音樂滿溢而出,將聴眾的精神以十重廿重的無形晦闇包圍。聴眾被推入萬壑深淵,永劫不復而毫無自覺 ......
 然而,我無論何時都因創作而疲憊,故不求此般與深淵相渉之娛樂。我對於音樂的要求,就是讓筆者化作官能之豚而已。是以我唯愛用餐時喧囂膚淺的音樂,以及為擺臀舞蹈伴奏的中南美音樂。

~
 在藝術享受上,似乎存在著 Sadistic 與 Masochistic之別,而我儼然屬於前者。音樂愛好家,則蓋是 Masochistic 吧?所謂聆聽音樂的悅樂,豈非為其所包攝、抱擁、穿刺的純粹悅樂?豈非單純地、被動地從順於被命令的情感的悅樂?無論是何種音樂,我都無以體會解放感。

三島由紀夫『小説家の休暇』關於音楽

トーマス・マンも云ふやうに、藝術とは何か極めて如何わしい物であり、丁度日本の家のやうに之の後ろに便所があるやうな、さう云ふ構造を宿命的に持つてゐる。

三島由紀夫「パリにほれず」

恰如 Paul Thomas Mann 所言,藝術實為極度不雅、下流之物。恰如日本民家,壁龕之後緊隨茅廁一般,宿命地備有此般構造。

三島由紀夫「パリにほれず」

僕はね、品のいいものと悪いものと非常に区別するのだよ。それでやはり、ウンコと言うよりも便通と言ったほうが品がいいと思うのだよ、おれは。そうしてね、そういうもののリファインメントというものだけに、そういうような怪しげなものにだけ言語の洗練がかかっているのだというふうに、僕は考える。

三島由紀夫

筆者極度偏執於上下品之分。竊以為,「排便」較「拉屎」稍雅。僅消藉此枝微末節之精製,如斯光怪陸離之更迭,言語自然步步洗鍊,逐而完臻。

三島由紀夫

嘘の言葉を、其れと知りながら使ふと云ふのは、紛れもないニヒリズムの兆候である(だから小説家と云ふ人種は油断ならないのだ)。催眠術師、魔術師、扇動家、感傷家、悲壮趣味、ヒロイズム、……此等は皆ニヒリズムの兆候である。
三島由紀夫『一つの政治的意見』

知其誑語而用之,無疑乃虛無主義之徵兆。(是以對小説家,不可掉以輕心。)催眠術師、魔術師、搧動家、感傷家、悲壯趣味、英雄主義、……此疇皆為虛無主義之徵兆。
三島由紀夫『一つの政治的意見』

 文学はおそらく、もっとも知性に抵抗を与える素材を取り来って、それを知的に再構成するという職分を持っており、これこそ知的冒険であり、水の力で以て火を消さずに、火を水で包んで結晶させるような一種の魔術なのである。

三島由紀夫『陶酔について』

 文學恐怕是汲取最與知性牴觸之素材,而將之再構化作知性產物的一種職分。此其方是知性之冒險。不以水之力滅火,而是將火包攝於水中,令其結晶的一種魔術。

三島由紀夫 『有關陶醉』

人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」事をバタイユは冷酷に指摘する。その「本心」こそバタイユの所謂「エロティシズム」の確信であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者等の遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、我我に切り拓いて見せてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫

Bataille 冷酷地指謫道 ── 人類使盡渾身解數拒絕神、否定神之吶喊,其實並非真情。那份「真情」洽是 Bataille 所謂「情色主義」的確信。維也納出身的精神分析學者 ( Sigmund Freud ) 之疇,其俗惡眼界所遠遠望塵莫及的情慾深淵,將之開拓、示現在我輩眼前的,正是 Bataille。

相較於十七世紀為主知主義時代,十八世紀則堪稱情色主義時代、虐待主義時代。同樣地,十九世紀為科學實証主義時代,二十世紀則或為其反動,而再度迎來情色主義時代也未可知。
Georges Albert Maurice Victor Bataille『Eroticism』

なぜ大人は酒を飲むのか。
大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。
子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。

成人何以飲酒?成人之哀,在無酒而不醉。
稚童不消暢飲,卻可倏忽遊興而得酣。【三島由紀夫