元亨釋書、万葉集試訳

■元亨釋書 卷十五 方應
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/mokuroku/genkou/genkou15.htm
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万葉集試訳

4411 【承前,短歌其三。】
 伊弊都刀爾 可比曾比里弊流 波麻奈美波 伊也之久之久二 多可久與須禮騰
 家苞(いへづと)に 貝(かひ)そ拾(ひり)へる 濱波(はまなみ)は 彌頻頻(いやしくしく)に 高(たか)く寄(よ)すれど
 欲送於家人 俯拾珠貝作贈物 濱浪能濤天 頻頻捲起湧不斷 狂瀾高波而寄來
大伴家持 4411

「濱波(はまなみ)は」,蓋想像自難波津一帶前往住吉途中之景色。
「彌頻頻(いやしくしく)に」,頻頻不斷地。

4412 【承前,短歌其四。】
 之麻可氣爾 和我布禰波弖氐 都氣也良牟 都可比乎奈美也 古非都都由加牟
 島蔭(しまかげ)に 我(わ)が船泊(ふねは)てて 告遣(つげや)らむ 使(つかひ)を無(な)みや 戀(こひ)つつ行(ゆ)かむ
 羈旅泛海路 我泊船舩島蔭間 雖欲告家人 苦無信使可遣者 戀慕不只仍徃矣
大伴家持 4412
 二月廿三日,兵部少輔大伴宿禰家持。

「告遣(つげや)らむ」,假想連體格。欲委託信使與故鄉之家人聯絡。
「使(つかひ)を無(な)みや」,「無(な)み」為「無(な)し」之み句法。

4413 【武藏國部領防人使掾安曇三國進歌,十二第一。】
 麻久良多之 己志爾等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久
 枕太刀(まくらたし) 腰(こし)に取佩(とりは)き 真愛(まかな)しき 背(せ)ろが罷來(まきこ)む 月(つく)の知(し)ら無(な)く
 願猶枕太刀 取佩腰間不離身 真愛吾夫子 有朝汝命歸罷來 所期月日無由知
檜前舍人石前妻大伴部真足女 4413
 右一首,上丁那珂郡檜前舍人石前之妻大伴部真足女。

「枕太刀(まくらたし)」,即便夜寢之時,亦置於枕邊寸步不離身之愛刀。「太刀(たし)」為「太刀(たち)」之訛。
「真愛(まかな)しき」,見之而感到痛心。「ま」為「め(目)」之交替形。以「愛(かな)し」表男女情愛時,多為男性對於女性,此為異例。
「背(せ)ろが罷來(まきこ)む」,「背(せ)」為丈夫。「罷來(まきこ)む」完成任務歸來。
「月(つく)の知(し)ら無(な)く」,不知何時何日。「月(つく)」為「月(つき)」之訛。

4414 【承前,十二第二。】
 於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之氣 麻古我弖波奈利 之末豆多比由久
 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 愛(うつく)しけ 真子(まこ)が手離(てはな)り 島傳行(しまづたひゆ)く
 大君敕命重 誠惶誠恐遵宸旨 惜也愛憐兮 今離愛妻手別去 泛海傳島渡西偏
大伴部小歲 4414
 右一首,助丁秩父郡大伴部小歲。

「愛(うつく)しけ」,「愛(うつく)しき」之訛。
「真子(まこ)が手離(てはな)り」,「真子(まこ)」為愛憐之女性。「離(はな)り」為「離(はな)れ」之訛。

4415 【承前,十二第三。】
 志良多麻乎 弖爾刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也
 白玉(しらたま)を 手(て)に取持(とりも)して 見(み)るのすも 家(いへ)なる妹(いも)を 復見(またみ)てももや
 持取白玉而 手中觀翫之所如 功成覆命後 欲與留家吾妹妻 相逢端詳彼光儀
物部歲德 4415
 右一首,主帳荏原郡物部歲德。

「手(て)に取持(とりも)して」,「持(も)して」乃「持(も)ちて」之訛。
「見(み)るのすも」,「のす」與「なす」同,蓋為東國語訛。「も」為呼應第五句之願望表現。
「復見(またみ)てももや」,「見(み)ても」為「見(み)てむ」之訛。

4416 【承前,十二第四。】
 久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流禰世婆 伊波奈流和禮波 比毛等加受禰牟
 草枕(くさまくら) 旅行(たびゆ)く背(せ)なが 丸寢為(まるねせ)ば 家(いは)なる我(われ)は 紐解(ひもと)かず寢(ね)む
 草枕在異地 羈旅他鄉吾夫子 汝若丸寢者 吾雖在家亦相隨 不解衣紐以寢矣妻
椋椅部刀自賣 4416
 右一首,妻椋椅部刀自賣。

「背(せ)な」,對丈夫、戀人、兄長等親暱男性之昵稱。「な」乃接尾語。
「丸寢(まろね)をすれば」,「丸寢(まろね)」乃晚間仍穿著衣物就寢。
「家(いは)なる我(われ)は」,「家(いは)」為「家(いへ)」之訛。
「紐解(ひもと)かず寢(ね)む」,有堅守貞操之意。

4417 【承前,十二第五。】
 阿加胡麻乎 夜麻努爾波賀志 刀里加爾弖 多麻能余許夜麻 加志由加也良牟
 赤駒(あかごま)を 山野(やまの)に毀(はかし) 捕難(とりか)にて 多摩橫山(たまのよこやま) 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
 栗毛赤駒之 逃逸山野奔毀畔 亡失難捕矣 武藏多摩嶮橫山 唯有徒歩翻越哉
椋椅部荒蟲妻宇遲部黑女 4417
 右一首,豐嶋郡上丁椋椅部荒蟲之妻宇遲部黑女。

「赤駒(あかごま)」,栗毛駒。駒多指騎乘用之雄馬。按「軍防令」,防人就任時可攜家人、奴婢、牛馬同行。
「毀(はかし)」,「毀(はかち)」之訛。『古語拾遺』、『日本書紀』神代有「毀畔(あはかち)」之語。
「捕難(とりか)にて」,「難(か)にて」為「難(か)ねて」之訛。
「多摩橫山(たまのよこやま)」,「橫山(よこやま)」為鮮少起伏,橫長綿延之山。此蓋作者所居之武藏國豐嶋郡西南一帶之山。
「徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」,「徒歩(かし)」為「徒歩(かち)」之訛。「ゆ」同「より」,表手段、方法。

4418 【承前,十二第六。】
 和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈禮 和我弖布禮奈奈 都知爾於知母加毛
 我(わ)が門(かど)の 片山椿(かたやまつばき) 誠汝(まことなれ) 我(わ)が手觸(てふ)れ莫(な)な 土(つち)に落(お)ちも哉(かも)
 吾戶家門前 片山所生海石榴 誠兮椿花矣 我手無由觸之間 汝將散華落土哉
物部廣足 4418
 右一首,荏原郡上丁物部廣足。

「我(わ)が門(かど)の」,家門正對面之所可觀。
「片山椿(かたやまつばき)」,片山指山之頃斜地帶。椿用以暗喻所喜愛的女性。
「我(わ)が手觸(てふ)れ莫(な)な」,「なな」為表「しないで」之東國語。
「土(つち)に落(お)ちも哉(かも)」,「落(お)ちも」為「落(お)ちむ」之訛。
擔心自己赴任防人職之間,心儀之女子遭他人娶走之曲。

4419 【承前,十二第七。】
 伊波呂爾波 安之布多氣騰母 須美與氣乎 都久之爾伊多里弖 古布志氣毛波母
 家(いは)ろには 葦火焚(あしふた)けども 住良(すみよ)けを 筑紫(つくし)に至(いた)りて 戀(こふ)しけ思(も)はも
 在鄉居家時 雖焚葦火多煤污 宜居宜住矣 至來東國筑紫地 必然戀慕懷故土
物部真根 4419
 右一首,橘樹郡上丁物部真根。

「家(いは)ろには」,「家(いは)」乃「家(いへ)」之訛。
「葦火焚(あしふた)けども」,「葦火(あしふ)」為「葦火(あしひ)」之訛。家中焚葦以取暖,而遭煤灰髒污之狀。
「住良(すみよ)けを」,「住良(すみよ)け」為「住良(すみよ)き」之訛。
「戀(こふ)しけ思(も)はも」,蓋「戀(こほ)しく思(も)はむ」之訛。

4420 【承前,十二第八。】
 久佐麻久良 多妣乃麻流禰乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許禮乃波流母志
 草枕(くさまくら) 旅丸寢(たびのまるね)の 紐絕(ひもた)えば 我(あ)が手(て)と付(つ)けろ 此針持(これのはるも)し
 草枕在異地 羈旅他鄉丸寢時 衣紐若絕者 以之為我所手付 可持此針續斷紐
椋椅部弟女 4420
 右一首,椋椅部弟女。

「我(あ)が手(て)と付(つ)けろ」,「と」為當作,想作。「付(つ)けろ」等同中央語之「付(つ)けよ」。
「此針持(これのはるも)し」,「針(はる)」為「針(はり)」之訛。

4421 【承前,十二第九。】
 和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美禰波保久毛乎 美等登志努波禰
 我(わ)が行(ゆ)きの 息衝(いきづ)くしかば 足柄(あしがら)の 峰這(みねは)ほ雲(くも)を 見(み)とと偲(しの)はね
 我之此去而 若感別離息苦者 可望足柄之 峰上蟠踞白雲而 以為形見偲吾身
服部於由 4421
 右一首,都筑郡上丁服部於由。

「息衝(いきづ)くしかば」,「息衝(いきづ)かしかば」之訛。「息衝(いきづ)か」為痛苦哀嘆之意。
「足柄(あしがら)の 峰這(みねは)ほ雲(くも)を」,早期武藏防人經足柄峠而西向。其後經路改變,而或有稱秦野大山為足柄之例。
「見(み)とと偲(しの)はね」,「見(み)とと」乃「見(み)つつ」之訛。

4422 【承前,十二第十。】
 和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈奈 阿也爾加母禰毛
 我(わ)が背(せ)なを 筑紫(つくし)へ遣(や)りて 愛(うつく)しみ 帶(おび)は解(と)か莫(な)な 文(あや)にかも寢(ね)も
 愛也吾夫子 許汝遣去筑紫洲 惜也哀憐兮 堅守信誓不解帶 輾轉難眠獨寢哉妻
服部呰女 4422
 右一首,妻服部呰女。

「文(あや)にかも寢(ね)も」,心痛而寢。
此曲與4428幾乎相同。

4423 【承前,十二十一。】
 安之我良乃 美佐可爾多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜爾美毛可母
 足柄(あしがら)の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振(そでふ)らば 家(いは)なる妹(いも)は 清(さや)に見(み)もかも
 相模關門之 佇立足柄御坂上 振袖揮手者 居家留守吾妹妻 可以清楚望見哉
藤原部等母麻呂 4423
 右一首,埼玉郡上丁藤原部等母麻呂。

「足柄(あしがら)の 御坂(みさか)に立(た)して」,防人於東國關門足柄峠揮手惜別。「立(た)して」為「立(た)ちて」之訛。
「清(さや)に見(み)もかも」,「清(さや)」為明瞭之意。

4424 【承前,十二十二。】
 伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曾米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可爾美無
 色深(いろぶか)く 背(せ)なが衣(ころも)は 染(そ)めましを 御坂給(みさかたば)らば 真清(まさや)かに見(み)む
 早知如此者 當將吾夫所著裳 八鹽折染矣 若摺彼衣色深濃 過御坂時可顯見
妻物部刀自賣 4424
 右一首,妻物部刀自賣。
 二月廿九日,武藏國部領防人使掾正六位上安曇宿禰三國進歌數廿首。但拙劣歌者不取載之。

「御坂給(みさかたば)らば」,「給(たば)る」為「給(たま)はる」之略。
「真清(まさや)かに見(み)む」,「真(ま)」為完全、純粹之意。

4425 【昔年防人歌,八首第一。】
 佐伎毛利爾 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
 防人(さきもり)に 行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と 問(と)ふ人(ひと)を 見(み)るが羨(とも)しさ 物思(ものもひ)もせず
 每見閒人問 此去防人誰夫哉 言者雖無意 聽者有心我稱羨 妒其無須憂別離
防人 4425

「防人(さきもり)に 行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と」,此為觀望作者丈夫被徵招為東國防人出行之路人所語。
「見(み)るが羨(とも)しさ 物思(ものもひ)もせず」,相對於自己夫妻被迫別離,羨慕路人可以漠然地事不關己。