太安万侶

古事記』とは何か---和銅年間に挿入された「近代日本の聖典
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-63.html
竹取物語のデータを探しながら、『古事記』が何時から民間に流布したのを興味があってこれを探し出した。
なにより、『日本書紀』から諸般な正史では『古事記』の記録がありません。そして、はじめて『古事記』についての紀述があるのはどの本でしょうか?それは、弘仁三年の『日本書紀私記』こと『弘仁私記』の序です。


面白いのは、『弘仁私記』の講書を行ないのが多人長と言う太安万侶の子孫で、太安万侶は『古事記』、『日本書紀』の製作を参加したことを話したのも、『弘仁私記』だけです。
昔から『続日本紀』では太安万侶の記録があるだと判りますが、いつも『日本書紀』の撰録にも安麻呂が関わっていたことが『続日本紀』にあるだと思いました。
この記事を観て、直ぐ『続日本紀』をチェックしました。

  • 慶雲元年正月癸巳◎癸巳。詔以大納言從二位石上朝臣麻呂為右大臣。无位長屋王正四位上。无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王並授從四位下。從六位上高橋朝臣若麻呂。從六位下若犬養宿禰檳榔。正六位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大神朝臣狛麻呂。佐伯宿禰垂麻呂。從六位下阿曇宿禰虫名。從六位上采女朝臣枚夫。正六位下朝臣安麻呂
  • 和銅四年四月壬午◎壬午。詔叙文武百寮成選者位。從五位上熊凝王。長田王並授正五位下正四位下中臣朝臣意美麻呂。巨勢朝臣麻呂並正四位上。從四位上石川朝臣宮麻呂正四位下。從四位下息長真人老從四位上。正五位上猪名真人石前。路真人大人。大伴宿禰旅人。從五位上石上朝臣豐庭並從四位下。正五位下忌部宿禰子首。阿倍朝臣廣庭。石川朝臣難波磨。石川朝臣石足。大宅朝臣金弓。朝臣安麻呂。多治比真人三宅麻呂。從五位上笠朝臣麻呂並正五位上
  • 靈龜元年正月癸巳◎癸巳。詔曰。今年元日。皇太子始拜朝。瑞雲顯見。宜大赦天下。但犯八虐。私鑄錢。盜人常赦所不原者。並不在赦限。内外文武官六位以下。進位一階。又授二品穗積親王一品。三品志紀親王二品。從四位下路真人大人。巨勢朝臣邑治。大伴宿禰旅人。石上朝臣豐庭。多治比真人三宅麻呂。百濟王南典。藤原朝臣武智麻呂並從四位上。正五位上大伴宿禰男人。朝臣安麻呂正五位下當麻真人櫻井。從五位上多治比真人縣守。藤原朝臣房前並從四位下。
  • 靈龜二年九月乙未◎乙未。從三位中納言巨勢朝臣萬呂言。建出羽國。已經數年。吏民少稀。狄徒未馴。其地膏腴。田野廣寛。請令隨近國民。遷於出羽國。教喩狂狄。兼保地利。許之。因以陸奥置賜最上二郡。及信濃。上野。越前。越後四國百姓各百戸。隷出羽國焉。以從四位下太朝臣安麻呂為氏長
  • 養老七年七月庚午◎秋七月庚午。民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒

続日本紀』より


続日本紀』では、太安万侶を「太朝臣安麻呂」と書くことになります。太安万侶の存在を否定する説の間違いはいうまでもない。がしかし、太安万侶が『日本書紀』の撰録に参加することの記録がありません。

  • 養老四年五月癸酉◎癸酉。先是。一品舍人親王奉敕。修日本紀至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。

続日本紀』より

日本書紀に関わる記事はこれのみです。


つまり、今私達が信じる太安万侶の事蹟はその子孫が書いた『弘仁私記』でしか有りません事です。
仮名遣によって『古事記』は『日本書紀』より旧いだと思いますが、本当に天武天皇の命令によって稗田阿禮が誦習して、元明天皇の頃太安万侶が撰録したのか否か、面白い課題になります。