偽書


偽書の事ですが、普通の偽書ではなく、先代旧事本紀の序の話です。


先日、『先代旧事本紀復権』を少々読む事にした。(ですから修羅場モード続くという自業自得が...)
興味深いところ、それは『先代旧事本紀』の「序」は一体、何時から付けたのでしょうか?

先代旧事本紀


大臣蘇我馬子宿禰等奉勅修撰


 夫先代旧事本紀者,聖紱太子且所撰也.
 于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇,即位廿八年,
 歳次庚辰,春二月甲午朔戊戌.攝政上宮廄戸豊聰耳聖紱太子尊命.
 大臣蘇我馬子宿禰等,奉勅撰定.宜録先代旧事,上古國紀,神代本紀,神祇本紀,天孫本紀,天皇本紀,諸王本紀,臣連本紀,伴造國造百八十部公民本紀者,謹據勅旨.
 因循古記,太子為儒,釈説次録.而修撰未竟,太子薨矣,撰録之事輟而不續.
 因斯且所撰定神皇系図一卷,先代國記,神皇本紀,臣連伴造國造本紀十卷.號曰-先代旧事本紀.
 所謂先代旧事本紀者,蓋聞開闢以降,當代以往者也.其諸皇王子百八十部公民本紀者.更待後勅可撰録.
 于時卅年,歳次壬午春二月朔己丑是也.凡厥修撰題目,顯録如下.


  神皇系図一卷


  先代旧事本紀十卷
   第一卷 神代本紀 陰陽本紀
   第二卷 神祇本紀
   第三卷 天神本紀
   第四卷 地祇本紀
   第五卷 天孫本紀 或本云,皇孫本紀.
   第六卷 皇孫本紀 或本云,天孫本紀.
   第七卷 天皇本紀
   第八卷 神皇本紀
   第九卷 帝皇本紀
   第十卷 國造本紀



先代旧事本紀序より

ご覧通り、明らかにこの序は偽物である。なにより蘇我馬子が自分で「天皇を弒す」など言い筈がありません。
そして、推古朝で成立な書籍なら、その後の天皇の諡號を判る筈もありません。
それは、「先代旧事本紀偽書考」から始め色々の先代旧事本紀偽書説の立論になったものです。
が、『先代旧事本紀』はこの序を抜けば、別のところは偽書ではないのは今の見方です。
要する、この序を書く人は、『先代旧事本紀』を『天皇記』『國記』を見立したいんです。

 是歳,皇太子・島大臣共議之,録天皇記及國記,臣・連・伴造・國造・百八十部并公民等本記.


推古天皇紀二十八年是歳條より

廿八年春二月,甲午朔甲辰,上宮廄戸豊聰耳皇太子命・大臣蘇我馬子宿禰,奉勅撰録先代旧事天皇紀及國記,臣・連・伴造・國造・百八十部并公民等本紀也.


先代旧事本紀推古天皇廿八年春二月,甲午朔甲辰條より

先代旧事本紀のこの技述を見て、『天皇紀』以外、『古事記』の序にある『帝紀』、『旧辞』を目指す意図も見られます。


が、この序は最初から有るのでしょうか、それとも後の人が付けたのか?
あと、この本は始めから『先代旧事本紀』と呼ぶのじゃないかもしれません。


ここで、『日本の神々先代旧事本紀復権』から一部を引用して頂きます。

平安初期の頃、天皇が御位に就かれると、帝王学として『日本書紀』の講筳を開かれました。承平六年(九三六年)、朱雀天皇の時の講筳では、矢田部公望が講義をしているのですが、そこで『古事記』と『旧事本紀』とどちらが先に成立したのかということについて語っています。矢田部公望は「先師の説に曰く」として、醍醐天皇の時に講義した藤原春海は、『古事記』の方が先で『旧事本紀』の方が後だと言っていたと述べています。そしてその上で、自分は、『旧事本紀』の方が先で『古事記』の方が後だと思うと自らの考えを言っているのです。
こういうことが書かれているということは、藤原春海、 矢田部公望の時には、まだ序文が付いていなかったと考えられます。もしも序文が付いていたのなら、「序文にこう書いてあるではないか」と論じる筈なのですが、そういうことを一切論じていない。したがって、この当時は未だ序文はなく、序文はその後の時代に付け加えられたものだと考えられるのです。


『日本の神々先代旧事本紀復権』より

ところで、朱雀天皇の御世には、『先代旧事本紀』の序文がなかった可能性が高いです。
でも、その時は既に『先代旧事本紀』を『古事記』以前の著作、所謂古史古伝だと言い放す人がいると思います。
何故なら、そうでないとこの議論が出る自体が可笑しいではないかと。


また、今の『先代旧事本紀』には、「大臣蘇我馬子宿禰、勅を奉いて先代旧事天皇紀と國記を撰録す。」が有ります。
ここから『先代旧事本紀』を聖徳太子撰だという発想が始まるのではないか、私はそうでもないと思います。
まず、前述の講筳が成立した上に、『先代旧事本紀』というタイトルが既に成立したと思いますが、
もしその中に、「蘇我馬子が先代旧事天皇紀と國記を撰録す。」が有れば、そこにも論述しならざるをえないと思います。
多分、今の『先代旧事本紀序』か書いた後、「天皇紀・國記」を「先代旧事天皇紀と國記」に変更したのではないが?
或いは、ある人が「旧事天皇紀と國記」と書いたからその序の発端になるかもしれません。両者一緒の可能もあります。


って、『先代旧事本紀』は一体いつ、何のために書いたのでしょうか?
おそらく『古語拾遺』という「忌部(齋部)氏」の史観の歴史書の影響を受けたからのです。
その前の『古事記』も『日本書紀』も、中臣氏と藤原氏中心の史観で、延喜式は殊更中臣氏の都合によるものに見えます。
が、齋部広成が齋部氏の承傳によって『古語拾遺』を書いて、齋部氏の史観を主張する。
物部氏の関係者が「物部氏の史観」としての歴史を世人に知らせたい為に『先代旧事本紀』を書いたのではないか。
ところで、物部守屋の件も有って、日本紀略にも「世に傅う。大連が家、多く本邦の古典籍を藏す。是の時散亡殆ど盡くと。後學嘆惜す。」と記録した。
その故に、後世の物部関係者は物部氏にある多くの本邦古籍を参考して『先代旧事本紀』を作る筈はない。
そのために、現有の『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の文字を借りて、それに物部独自の史観を融合して『先代旧事本紀』を成立したと思います。


あと、ツッコミしたいことは、
日本書紀』によって、『國記』は蘇我氏滅亡した時が救出したのですが、『天皇紀』は焼失したのです。
「先代旧事天皇紀と國記」と書くことはやっぱり無理かもしれません。
(当然、焼失したと思ったが実は現存するという言い方も有るのですが)


ところで、上述の「談義を論じる」記録は歴史研究にとってかなり重要のデータです。
誰も今の典籍は当年のままを確信することは出来ないからね。