実家

実家に戻った、既に二日目。パソコンは問題なし何で最近は珍しかった。(汗)


どころで、台湾と日本のヤフオクで以下のものを入手しました。

平田篤胤まとめの一冊。
平田篤胤の古道大意、霊能真柱、仙境異聞。佐藤信淵の鎔造化育論。鈴木雅之の撞賢木を收録した。
折口信夫氏の平田篤胤観、そして平田篤胤が異常成る程幽冥界に関心を示すことも論及され。
判る人なら判る、本居宣長にないは、平田篤胤にあるのは、その「死後安心論」であります。
霊能真柱から発足したこの論述を、仙境異聞と稲生物怪録などの調查で実践し続ける。

全5巻、神代から107代・後陽成天皇迄の天皇を中心にした漢文で書く歴史。
年代がある上に、虫食もあったからどうやて保存するが大変そうです。

太宰治

  • 夜会服

三島由紀夫



どころで、平田篤胤佐藤信淵のキーワードがあるのに鈴木雅之だけがないため、
早速、鈴木雅之のキーワードを作ってみました。

鈴木雅之(AD.1837~AD.1871)
下総人、幕末・明治の草莽の国学者歌人。通称「清兵衛」、号「霞堂」など。
主な著作は「撞賢木(つきさかき)*1」や「民政要論*2」など。


  • 撞賢木 目次
  • 生平
    • 1837(天保 八) 下総国埴生郡南羽鳥村の農家より生まれる。
    • 1850(嘉永 三) 同郷の歌人・神山魚貫の元で和歌を学ぶ。
    • 1856(安政 三) 両親の要望より結婚が、間もなく離婚。学業に専念すると決意して、郷を出る。
    • 1864(元治 一) これから明治二年まで、香取郡古城村の医家・平山昌斎の元で寄寓したという。
    • 1867(慶応 三) 代表作『撞賢木』を成ったという。
    • 1869(明治 二) 伊能穎則の招きで東京に出る。十月、大学小助教を任す。
    • 1870(明治 三) 三月、神祇官宣教使中講義生を任す。
    • 1871(明治 四) 四月廿一日より急逝。



あだち充ヒロインバトン(ままーる2005年6月27日より)
http://ma-ru.sakura.ne.jp/
うっ、うまい。



*1:『撞賢木』というタイトルは、『日本書紀神功皇后紀にで、天照大神が自ら「神風伊勢国之百伝度逢県之拆鈴五十鈴宮所居神、名-撞賢木厳之御魂天疏向津媛命焉。」と名乘る所より引用したの。日本の名著 24 平田篤胤にで收録。

*2:全国の伝承江戸時代人づくり風土記(12)千葉 (全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵)鈴木雅之と『民政要論』」にで一部引用