大日本史:井上内親王・酒人内親王


大日本史后妃伝:井上内親王・酒人内親王
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dns076.htm#10
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日本後紀 (訳注日本史料)

日本後紀 (訳注日本史料)

さっき、『注訳日本史料・日本後紀』を調べてみました。
やっぱり、吉野皇太后井上内親王に間違いないと思います。*1
どうして、大日本史は酒人内親王井上内親王の娘にしなかったのでしょうか?*2その質問について、
恐らく、大日本史大義名分論からきたのではないかと思います。


井上内親王の件、他戸とともに、連坐された者は少なくないんですが、唯一人例外したのは、酒人内親王である。
其のとき、酒人内親王がそのまま伊勢赴任に行くのです。
常識として、こういう時、斎王退下の方が余程合理なのではないか、と思います。
何故かというと、斎宮制度に多大な影響を持つ天武天皇の血脈が必要なのだ、*3と神宮の判断がしたのでしょう。
天武系から天智系へ移行する過程こそ、天武系の血が持つ井上・酒人・朝原という三代の斎王が必要であります。
なお、怨霊の話から見ると、井上内親王に対する民間の輿論や同情と朝廷の悔悛が薄々窺えます。
でも、井上内親王復権になっても、他戸親王復権しなかった。
それは、もし他戸親王復権すると、桓武天皇の正統性が疑われますから。
こういう事があって、桓武天皇が酒人内親王に対して、何らの謝らなければ...の気持ちがあるでしょう。
その気持ちが、のち酒人内親王の薨伝で観られる「為性倨傲、情操不修。天皇不禁、任其所欲。」*4から窺えます。


大日本史の特色である大義名分論の上に、大友皇子復権が鍵という気がします。
大友皇子、つまり天智・桓武系は大義であれば、天武系に悪のイメージを付くのもおかしくありません。
実は、大日本史井上内親王伝を見る限り、井上内親王の名譽回復をしなかったのです。
一応、脚注で百川陰謀説を論及したものの、あれは信じがたいことである、と書きました。
この編輯方針によれば、桓武天皇の名譽が守れる。
そしてさらに、井上内親王と酒人内親王の関係を断絶すれば、なおさら都合が良くなります。
これにより、桓武天皇が酒人内親王に対する態度が井上内親王と無関係なものになる。
なお、井上内親王のところで天武系を没に、酒人・朝原を完全な桓武*5になったのです。
この操作によって、天智天皇大友皇子桓武天皇が正統の筋書を取り、三代の斎王がそのイデオロギーの犠牲者になった気がします。


私はいつも斎王の味方です、はい。*6
たちゃなさん斎宮志の資料を調査して下さって、*7助かりました。誠に有難う御座います。



京都大学図書館藏・東大寺要録



*1:井上内親王の陵墓こと宇智陵について、その別名は吉野陵である。

*2:大日本史では、吉野皇太后を高野皇太后に比定する。

*3:天武天皇が斎王制度を創ったことは、学界ではほぼ定説ではありますが、『伊勢斎宮と斎王〜祈りをささげた皇女たち』を従って、七世紀後半の斎宮遺構が発見されたより、天武朝を創制ではなく大幅拡大と見なす。創制も整頓も、何れにしよう、天武天皇の影響は絶大ってことは間違いません。 http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20070204/p1

*4:性倨傲にして、情操修まらず。天皇はこれを禁ぜず。その欲する所に任す。

*5:母方が百済系渡来人の高野新笠になる。

*6:うちの電子テキスト、脚注で私見を付きました。イタリックの方。

*7:http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20070309/p1