やれやれ


大日本史

後宇多天皇
 源基子,内大臣具守女也。祖父太政大臣基具養為子。【歴代皇紀女院小傳、後宮略傳、尊卑分脈。】初侍新陽明門院,稱東御方。得幸,【増鏡。】生後二條帝。及後二條帝崩,出家為尼,法名清浄法。延慶元年十一月,敘從三位。十二月,準三宮,【歴代皇紀女院小傳、後宮略傳。】進號西華門院。【院號定部類記引藤原實躬記、貴女抄、女院小傳、後宮略傳。】正平十年八月,薨。年八十七。【園太暦。】

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源融

ここで注目したいのは「時康親王光孝天皇)擁立」である。藤原基経陽成天皇譲位後の帝に時康親王を押した。これに融が反対したのである。「大鏡」には次のようなやりとりがあったとされている。

融「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」
基経「皇胤なれど、姓賜ひてただ人にて仕へて、位につきたるためしやある」

つまり、臣籍に下りながら皇位に就いた例はない、というのだ。これには融も反論できず、ひきさがらざるをえなかった。ところが光孝天皇の没後、基経がかつぎだしたのは光孝天皇の息・源定省(さだみ)であった。定省は即位して宇多天皇となる。融には「先例がない」などと言っておきながら、わずか3年後にこのとおりである。このことはのちに陽成上皇も「当代は家人にはあらずや」と怒りをあらわにしている。しかし、融はこのとき何の反対もしなかったようだ。融の心中は如何・・・

このとき融が天皇の位を望んでいたとの考えもありうるが、私はむしろ藤原氏の専横への反感から出た発言ではあっても、積極的に皇位を望む程ではなかったのではないかという気がする。融は、少なくとも政治的野心の強い人ではなかったと思う。それは、融が、後に藤原道長を苦しめた藤原顕光のような激しい怨霊となった形跡がないからである。後に述べる「今昔物語」の話にしても、怨霊という感じではないように思う。融は文化的に満たされることで政治的な憂さを晴らしていた、もしくはさらに一歩進んで政治的な価値よりも文化的価値を重視した人だったのかもしれない。

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