愛ではなく哀

愛ではなく哀


 この偏見が何時頃からの物か分らないのだが、具体的な認識として、自分の思考の中に根付いて十年近くは経つだろう。
 愛、と言う単語の使われ方への嫌悪感。
 此れは、偏見に近い。
 にも関わらず、コマーシャル・ベースに現れる”愛”が、より愛だけを示そうとすればする程、嫌悪すべき言葉なのだと思わざるを得ない。
 ガンダムⅡのサブ・タイトルを決定するプロセスで、そんな世情に対しての、皮肉を込めて、”哀戦士”とした。
 此れが、僕の感性である。
 勿論、哀戦士と言うタイトルは、劇中の敵味方の全ての戦士達(死者達)を包括したいと考えたの造語である。
 十全たる物とは思ってはいない。にも関わらず、此タイトル決定の思惟を少しでも判って欲しいと言う思いが、我々スタッフには有る。
 奇しくも、同時期のある映画のコピーを見て唖然とした。
 愛を捨てれば、戦争と言わず、人生と言わず、敗北は目に見えているのだ。
 敗北は敷衍化して、棄てられた愛がどう成るのか、と言う決定的な人の力を示す事無く、又、愛はずっと以前に棄てた国家が有ったから敗北したのではないのか?と言うクエッションも無く、戦い故に男達は愛を棄てると言う短絡的思想が存在するならば、其れは敗北主義である同時に、現在と言う時代そのものの病根さえも見失う事と成るだろう。
 愛と言う流行言葉の階調は、極めて甘美である。現代と言う時代の持つ論理、構造をも併呑して甘美である。
 この思考は、現実の人の関り合いを直視する事さえ忘れさせ、何となく愛、で全ての物事を終息し得るのである。
 商業主義を糾弾するのではなくて、現実的過去帳に在るべき物語を伝えようとする時には、正しくあって欲しいと思うのだ。
 勿論、正史を曲げる事さえも横行するのは、何も現代だけではなく、古今東西、権者によって行われてきた事だ。
 それ故に、其れは仕方無い事だと認めはする。
 其れが、人の行為であるからだ。
 だが、同じレベルでの人であった時には、せめて現実認識を誤らせるようなオブラートは止めて欲しいと思うのだ。
 せめて、一般平民同士での騙し合いはしないで生きて行きましょう、という......。
 僕はクリスチャンでも仏教徒でも無いから、キリスト教で言う所の愛がどういう物かは知らない。仏陀の言う慈悲も知らない。
 が、僕が勝手に思い信じている事はこういう事だ。
 愛とは、現実の凌ぎ合いが有って、初めて証される事ではないのだろうか?と言う事である。
 愛が、甘美では無い筈なのだ。本来...。
 其れを、美しく、甘く、一つの高みの象徴としての力を持っているように、仕立てた人人が居るのではないのか?と、ふと思う。
 物語の世界では──日本だけの現像だが──愛が世界の一つや二つ救えると思うのは良い。
 其れだけの力と崇高性を備えた物だと信じたい人の願望は正しい。
 然し、其れが、真にファンタジーであって、現世界はそんな甘い物ではない、と言う決定的な事柄も示さねば成らぬのが大人達の役割ではないのだろうか?
 言葉と言うのは暴力に等しい時がある。
 自己欺瞞うをも生み出し易い。
 言葉を駆使する事は、一見、インテリ的行為であるが、歴史はインテリが力を示したと言う例を何一つ見せてはくれない。
 そして、現代の日本の肥大した商業主義はイメージ作戦と称して”愛”さえも道具にしている。
 この虚偽の言葉の生むイメージは、諸諸破壊する必要があるのではないのだろうか?
 まして、若者達と接する媒体にあっては......である。
 西欧にあっては、ボキャブラリィの少なさ故に、一つの言葉の意味性を構築する論理学が発達した、と理解する。
 少なくとも西欧人が持つ、宗教観、論理的思考の訓練が有って、ラブと言う言葉の成立がある。
 我々が、ナウさの感性を捉えるラブとは質感が異なる。
 つまり、ジョン・レノンが、愛で世界を救え、と叫ぶ愛と、人類皆兄妹、と言うチャッチフレーズに内在する連体感は質的にかなりの距離がある。
 其の事は、人類愛という直訳的日本語の意味性にも関ってくる事である。この言葉とて、今や直訳的日本語と感じる人は極めて少ないだろう。
 日本語には、元々思考を組み立てる為の語彙は無かったのである。情操表現の言葉は無数と言える位あっても......。
 人類、も哲学する為の直訳語であれば、愛、もそうであったのだ。
 其れが何時しか、言葉として馴染み、ひょっとすると感性表現に迄使われる言葉の機能が発生する。
 時代の趨勢として、仕方の無い事・・・・・・ではある。
 だからと言って、其の言葉の音の持つ心良さを利して、現実認識の芽を摘み取るの愚舉は止めにして欲しいのである。
 現在以上に、世を荒みに走らせるのは良い事ではない。
 かと言って、現在と言う時代が、人類史上の未曾有の時代に突入していると言う認識を持った時、此れを救濟する方法はあるのか?と問われた時に、愛でも救われぬと判った時、絶句するしかない。
 此れは、身悶えする位に口惜しい事である。
 未曾有の時代?何の世迷い事を、と仰る方も居よう。
 然し、此れこそ現代と言う社会──少なくとも先進国家を呑み込みつつある、有史以来に前例の無い時代だと言う正確な認識論が主流を得ていないだけの事なのだ。
 思潮にも、流行すたりは有る。
 が、此れは事実だと思う。そう感じる。
 今、其れを看過する事は許されない時代に入っているのではないか、と思う。
 其れ故に、馴れ合って愛しあって、幸せに死ねればいい、と言う楽天的思考は勘弁して貰いたいのだ。
 そんな事したら、皆死んで了う。
 少なくとも、何人かは生き残れるようにしたい。
 其の為に、我々は何をすべきなのか?
 此れがテーマである。
 現実の我々の時代は、ニュータイプの覚醒を待つには時間が無さ過ぎる。
 だから、愛ではなく、哀。
 口惜しみを持って、哀、と言う。
 然し、正確に現実を直視する力──タフネスさを持てば、必ず、何人かの生き残り達を手に入れる事が出来るのではないかと、僕は信じている。
 だから、愛ではなく、哀。
 今は、哀だけれど、飛翔したいと言う願望がニュータイプ話。
 そして、何処迄行っても絶望だけはしてはならない、と言う断固たる性根を僕自身持ちたいと願うのである。
 哀戦士に留まる事無く......。

富野喜幸

CDを見つかったので、その電子テキストを作成してメモとしてとっておきます。