文化防衛論

■文化防衛論・三島由紀夫二・二六事件・若きサムライのために
思想家としての三島、または男としての三島に纏わる本の数々でした。
橋本治が『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』において、三島がサド侯爵夫人を境に、母と訣別し、女性の物語より脱却したと指摘しています。
確かに『文化防衛論』の対談にも、三島が「私の文学は今でもなよなよしい。」と、女性的と男性的面を力説し、『若きサムライのために』もその対立が窺えます。
という役割を立てて、文学では男性的な『英霊の声』と女性的な『十日の菊』があり、そしてさらに男性的行動を出すのはこの辺のものでしょう。
『文化防衛論』を中心に話すと、ここには三島の思想家としての根幹があり、寧ろ三島の死との関係も極めて深いと思われます。
橋本が三島のその一面を気触ると思って、三島論の展開において殆ど全面的に無視するのは惜しいことだと思います。
比べてみれば、『三島由紀夫二・二六事件』の松本健一も橋本と同じく三島に対して好印象とはいえないものの、ある意味松本の方が正鵠得たと思います。
そして、『文化防衛論』は普段の言い廻りが少なくてより明確的に書かれていますが、『若きサムライのために』がさらに俗ぽい文体になります。
『若きサムライのために』の解説(福田和也)によりますと

若い読者は『PocketパンチOh!』という雑誌を知らないだろう。同誌は、昭和三十年代から五十年代にかけて、若年層の文化を主導した伝説的週刊誌『平凡パンチ』の姉妹誌として刊行されていた月刊誌で、Pocketという呼称は、判型がB6位の小さいものだったことによる。
内容は、『平凡パンチ』がもっとくだけてコクを強くした感じで、当時として刺激的なヌード写真からファッションなどの街ネタ、スポーツや自動車関係の読み物が充満していた。筆者の悪友などは、『パンチOh!』の表紙にもっともらしいカバーをつけて辞書に見せかけて授業中読み耽っていたものである。
『パンチOh!』の話を書いたのは、若い読者に、死の直前の三島がどうのような存在であったのかを想像してほしかったからである。『英霊の声』『豊饒の海』の作者もまた、猥雑かつ大衆的な雑誌で、陽気に若き日本人たる心得をとく、カルトスターであり、時代の精神の体現者であった。
(中略)
精緻極まる文体を駆使した三島由紀夫がベランメェな口調から響かせる声音は、なかなか魅力的である。

なるほど『英霊の声』は文学で『文化防衛論』は論文で『若きサムライのために』は講話ということであります。
ちなみにそれでも講話であって対話ではありません。三島曰く「私は詩を詠いたい」って、要する世間一般のコミュケションではありません。
その『文化防衛論』ですが、先ずは物質より精神的文化を述べました。

 中世以来の建築的精華に満ちたパリの破壊を逃れる為に、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらわれている。パリは一フランスの文化であるのみではなく、人類全体の文化的遺産であるから、これを破壊から護る事については敵味方一致するが、政治的局面においては、一方が他方に降伏したのである。そして国民精神を代償として、パリの保存を購ったのである。このことは明らかに国民精神に荒廃を齎したが、それは目に見えぬ破壊であり、見に見える破壊に比べたら、遥かに恕しうるものだった!


(中略)


 非武装平和を主張する一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによって世界史に平和憲法の理想が生かされれば良いと主張するのを聞いて、これがそのまま、戦時中の一億玉砕思想に直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守る為なら、保有者自身が全滅し、又、目に見える文化の総てが破壊されても良い、という思想である。


『文化防衛論』 P40〜41

形無き文化を守ろうとする一億総玉砕思想。西方は命が大事なんですが、東方では命が命成る価値があるから大事なんです。
西方から見ると命要らずとか狂気とか言われますが、命の価値を失った命を守って何になるでしょうね。
『朱雀家の滅亡』の幕引きに、経隆が「どうして私が滅びることができる?夙うのむかしに滅んでいる私が!」と叫んだのはなんたる切なさがあります。
そして、精神の重要さを提出しながら、オリジナルとコピー、つまり物質は仮の権現にすぎないことを述べる展開に続きます。

 日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。

(中略)

 ものとしての文化への固執が比較的稀薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色であるのは、こうした材質(木と紙の文化)の関係も一つの理由であろう。そこではオリジナルの廃滅が絶対的廃滅ではないばかりか、オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じないのである。
 そのもっとも端的例を伊勢神宮の造營に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亙る二十年毎の式年造營は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーに頼らざるをえぬギリシア古典期の雕刻を負うているハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造營の文化概念のユニークさは明らかであろう。歌道における「本歌とり」の法則その他、この種の基本的文化概念は今日なお我々の心の深所を占めている。
 このような文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にないところの天皇制の特質と見合っている。

(中略)

その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造營のように、今上であらせられると共に原初の天皇なのであった。大嘗会と新嘗祭の祕儀は、このことをよく伝えている。

『文化防衛論』 P43〜46

伊勢神宮天皇制から文化の生まれ変わり。見事に精神・物質、そして三島が絵描いた雅なる天皇像も段々成立しています。
そこで、北一輝の「天皇機関説」と正反対の「美しい天皇機関説」が隠しているのではないかと私が思います。
三島由紀夫二・二六事件』には、「美しい天皇を恋慕し続けた三島。天子になることを夢想した北一輝。ふたりを終生許さなかった昭和天皇」と書いて、
三島由紀夫北一輝に対する微妙な気持ちを指摘します。それは、北一輝を時代の巨人として崇める一方、天皇観が違うところによりそれと訣別するといいます。
況して、『奔馬』では「北一輝の『日本改造法案大綱』を読む学生が沢山居るが、飯沼勲がそこに何かか悪魔的なものを感じた。」とあります。
松本氏は北一輝天皇を国家統治するための機関と看做すのが、三島がそれと決定的訣別になると言いますが、
三島もまた別の方向で天皇をある種の機関と看做しているのではないだろうかと思います。その訣別からも北一輝に対して複雑な気持ちを持つのはその為だと思います。
三島は死を際して「天皇陛下万歳」と叫んだのですが、それは紛れもなく昭和帝に対するものではないと思います。
天皇その人に対するではなく、天皇たるものが必要なる(喩え演じるだとしても)何かかこそ、「美しい天皇」という機関だと思います。

二二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだ。当時十一歳の少年であった私には、それは朧気に感じられただけだったが、二十歳の多感な年齡に敗戦に際会したとき、私はその折神の死の恐ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、どこか密接に繋がっているらしいのを感じた。

『英霊の声』二二六事件と私

二二六と敗戦、昭和帝という”人”が、二度の機会にも美しい天皇という”座”を上手く演じなかった、と言うわけです。
いわば、三島から見れば、昭和帝は美しい天皇に相応しくない、と言っても宜しいな気がしています。
それは天皇という”人間”ではなく、天皇という"像"に対して、忠を尽くすのだと思います。
なお、「握り飯の恩義」は『奔馬』も『若きサムライのために』も繰り返し強調しているが如く、天皇に忠を尽くすと言うことは必ずも温厚なものではなく、
時に愛される人を火傷するほどの、烈しくて単向通行のエロスであります。そこには、『葉隱』では「恋の極致は忍び恋。」そして恋死は至高だと指摘しています。
北一輝の機関論は冷漠・非人情なものですが、三島の考え方もまた激情・苛庫な敬愛によって崇める機関論だと思います。
ここでは、天皇を美的、雅なるものを規定し、たとえ天皇本人はそんなものをしたくなくでも、三島は天皇がこうするべきと強く主張しています。

『文化防衛論』 P77〜79

 みやびの源流は天皇であるということは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の民衆文化論の示嗦するところところとなって、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発している。そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理「幽玄」「花」「わび」「さび」等を成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極み、古典主義の極致の祕庫が天皇なのであった。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と倫理的激発を絶えずインスパイヤするところに天皇の意義があり、この「没我的王制」が、時代時代のエゴイズムの掣肘力であると同時に包擁概念であった。天照大神はかくて、岩戸隠れによって、美的倫理的批判を行うが、権力によって行うのではない。速須佐之男命の美的倫理的逸脱は、このようにして、天照大神の悲しみの自己否定の形で批判されるが、ついに神の宴の、嗚滸業を演ずる天宇受売命に対する、文化の哄笑(もっとも卑俗なるもの)によって融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象型態が語られている。しかも、速須佐之男命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なる泣き枯す。」男神であった。菊の笑いと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されていた。
 速須佐之男命は、己の罪によって放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の最終の倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教えられるのである。これこそは八咫鏡の祕儀に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに「みやび」の中に包括され、そこに文化の全体性が残りなく示現し、文化概念としての天皇が成立する。というのが、日本文化史の大綱である。それは永久に、卑俗も包含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であった。

『文化防衛論』 P77〜79

そこで神話・古典を引用して、己の論述をここまで美的昇華をこなしたとは、流石三島の真骨頂というべきかもしれません。
なお、その美しい天皇像は、南朝からきたと言うことは、『若きサムライのために』の「文武両道と死の哲学」にあります。

幻の南朝に忠義を励む
ぼくの言つてゐる天皇制といふのは、幻の南朝に忠勤を励んでゐるので、いまの北朝ぢやないと言つたんだ。戦争が終つたと同時に北朝になつちやつた。ぼくは幻の南朝に忠義を尽くしてゐるので、幻の南朝とは何ぞやといふと、人に言はせば、美的天皇制だ。戦前の八紘一宇とは違ふ。
それは何かといふと、沒我の精神で、ぼくにとつては、国家的エゴイズムを掣肘するファクターだ。現在は、個人的エゴイズムの原理で国民全体が動いてゐる時に、つまり反エゴイズムの代表として皇室はすべき事があるんぢやないか、といふ考へですね。そして、皇室はつらいだらうが、自己犠牲の見本を示すべきだ。その為には、いまの天皇にもつともつとなさる事があるんぢやないか。

『若きサムライのために』P256より

ちなみに、『若きサムライのために』には上記「文武両道と死の哲学」と「あとかき」だけは歴史の假名遣ひになります。それ以外は新仮名で書かれています。
なお、『文化防衛論』においで一番読み応えがあるのは「道義的革命」、その書留は先日書いたので省略致します。
反革命宣言はちょっと共産党を危険視しすぎるじゃないかと思いますが、当時の事情を考えて無理でもない状況かもしれません。松本氏も今はそう危惧しなくでも済むなんですが、当時自分が書かれた物を見つかって愕然した、彼も、三島と同じく三派を見て何かか感じたのに間違いないでしょう。


以上は三島由紀夫を中心に、思うことを書いたのですが、
三島由紀夫二・二六事件』には北一輝、昭和帝のことに大きいな比重をおく、加之、大本教の話が出るとは夢に思をよらなかったので目から鱗です。
思いついたものが多すぎで書き切れない故、色々と割愛しました。なおサド侯爵夫人及び朱雀家の滅亡はまた今度にしましょう。




■倉本 倉田の蔵出し
初めて神保町・秋葉原へで向かった頃に頂いた本です。
今更読むことにしたのはどうも失礼致しました。
文化防衛論などに比べたら楽に読める部類である。倉田はイッてしまったな。いい壊れ具合でした。
賛同できることも賛同しかねるところもあります。何時もながら表紙の「女は紙とJPGに限ります!」に突っ込まずに居られません。
だからJPGはないだろうJPGは!実際、うろ覚えですが文内は「紙とMPEG2」になったりなかったりします。JPGより少しマシな気がします。
私が言わせると「女は神性と巫女に限ります!」(え?)いやなんでもないこちらのことです。本当は活字でもかなり行けるですよ、私は。
どころで絵は二次元ですけど、活字は一次元には入れるがどうかはよく分かりません。二次元においで極めて一次元に近い存在。
ちなみに(夙うの)先日、mixiマンガで分かる心療内科のを書いたら、ゆうメンタルクリニックからのアクセスが!!!

いや恐縮です、ほんとうに。実は髪フェチは厳密的フェチとは言えませんね、一応身体部位だから...
どころで髪はケラチンという硬質たんぱく質で形成されたものだから、必ず足フェチほど身体的でもないと思いますが...?
ああ、いけないな、話がずれしちゃった、本の話をしましょう。一言言えば、愛すべき馬鹿だ倉田は。
(度を過ぎなければ有能の)愛すべき馬鹿は大歓迎よ、私は。でも気に喰わないこともちょっとありますのやっぱり本を介在するコミュケションはいいですね。
恋物語には、読子似の女性ローラ(仮名)が出てきて面白そうですが、個人的は斎藤千和画伯が思ったより行動的ことにびっくりしました。
ローラが「いつか[神保町の本を全部読みたい」と言いますが、
私は荒俣弘の「神保町の古本屋そのものを買いたい」の方が心に打ちます。

「自分の持ってるDVDを全部本棚に並べて、悦に浸りたい。」というものです。なんか『マトリックス』の武器がガーッと並んでるトコみたいな、あんな感じで果てしなく続く棚にマイコレクションを一枚一枚並べていくのです。

は同感しつず、

「お客さんの中に、DVDをお持ちする人が居ませんか?」

には流石に吹いた。本当に愛すべき馬鹿だ。




■ドイツ列車砲&装甲列車戦場写真集
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/meisi/occult/dies_irae/ref/book/rwg01.htm
何で美しい、列車砲は男のロマンスだ!
捕獲研究されて「技術面は驚人的であるが、戦術面においでは....」というコメントがありましたのですが、
その純粋さ故、書くも技術面や芸術面を極める狂気が私のツボに入りすぎます。
はい、戦場の駄作兵器もかなり守備範囲に入っている私でした。
写真集でありながら、列車砲&装甲列車概説がは大変有益な資料になります。簡単に演進史が分かれます。