動物化するポストモダン

動物化するポストモダン

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

読了。大きいな物語の凋零、と大きいな非物語のセカイは、とても興味深い説でした。オタク文化を理解しようもないものでもなく、オタクそのものの自画自賛でもなく、そのどちらにも属せず、比較客観な立場に立ち位置を見出す本作は、確かに時代の要請に相応しいと思います。
前にも言いますが、岡田のオタク論は、誠意が持て余りながら、誠実さが足りませんでした。*1とは言いますが、岡田のオタク論を「信用に値する物」ではなく、「目指すべき物」と捉えた私には、本作には幾つも読み辛く...というか、恐らくある程度事実でありながら認めたくない点があります。
ようする、本作は戦後文化を、後現代たるポストモダンであると定義し、一時期ではアメリカの動物化と日本のスノビズムが併行して、スノビズムの形は80年代のオタク文化にあたります。つまり、理想の時代から、虚構の時代に、そして虚構でさえ死んでしまった今のポストモダンと言う流れでした。
第三世代オタクは、動物化である事は恐らく疑う余地があんまりないと思いますが、第二世代オタクの反動物性は、寧ろ動物化している流れを自覚しながら、無意味で形式的反動、そして見事に玉砕したと言う説を承認するには、かなり心苦しい部分があります。確かに、岡田オタク論は事実じゃなくて理想論ですが、理論を外して、現実の流れから考えれた、確かにスノビズムだと言えざるを得ないところがあります。
言い換えれば、岡田オタク論は偽善かつ独善である。偽善は、その出発点から虚構であることが決められました。独善は、社会全体がそれを組みようとせず時点から、破局も約束されたわけでしょうね。悲しいけど、それは現実だ。そして、(岡田)オタクの死は、オウム真理教の終焉と同じく、虚構の必要もなく動物化を甘受するポストモダンの時代の到来を宣言した等しいわけです。皮肉にも、岡田は論者よりも、スノビズム実行者に成り下がった事になります。
ですが、ささやかな反抗でありまるが、時にやらない善よりやる偽善の方がいいかもしれません。偽善の中から善が生まれないとは限れず、偽善が見破されぬままでは善である事もありうる事も事実だと思います。見てて愉快にならないのは、寧ろ岡田論で描いた未来に、少しでも期待した気持ちがあるからでしょう。例えそれは実現しそうにない今になるとしても、過去の努力を水泡にしたくない個人的思いによる物です。
論理の第一、第二章に比べると、応用篇の第三章が易々と共感を覚えます。全くネットと言う概念を知らない時代からネットがごく当たり前日常を両方とも経験した私には、心当たりがあり過ぎで否定しようも、否定したくもないものばっかりです。それと、コジェーヴが言う動物的欲求(besoin)と人間的慾望(desir)の使い分けが面白かったです。個人的は黒白ではなく、人も動物も、それぞれ動物的と人間的狭間に居ると思います。個体差より物種差が激しいではありますが......



■ブレイク ブレイド 1〜9巻

何そのハーレム作品。しかもヒロイン以外のハーレム構成員が全員男...(汗)
人物は魅力で画面にも張力があり、かえて読み易い、いつの間に読み通しことになったものの、ここまで何を読んだのか、と振り返って考えてみると大したこともないという矛盾なイメージがあります。悪くないのですが...愉楽作品に特化したハリウッド作品に近い雰囲気もあるかもしれません。ちなみに、人物名の出典は殆ど北欧神話ギリシア神話からでした。

*1:逆に『おたくはもう死んでいる』の方が結構誠実的ともいえます。