遠野物語・山の人生

■『遠野物語・山の人生』

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

読了。以前、注文したけれど品切になって、やむを得ぬ代わりに『遠野物語・附遠野物語拾遺』を買いました。遠野物語拾遺は遠野物語を続いて大変有益な物ですが、やっぱり『山の人生』を拝めぬ事に悔しかったのでしょうか、数年後、ついに岩波文庫遠野物語・山の人生』を入手して、ようやく『山の人生』を拝見する事ができました。
まずは構成ですが、本書は『遠野物語』『山の人生』『山人考』そして桑原武夫氏が書いた「『遠野物語』から」と「解説」によって成立したものです。ちなみに、岩波文庫の名文「読書子に寄す」も勿論収録されてます。『遠野物語』は『遠野物語・附遠野物語拾遺』でも見たのですが、今度は案外と歴史的かな遣いを新かな遣いに変えました。普通、文語に書かれた物は新かな遣いに治らないのは暗黙なルールであったのですが、どんな風向きか働いていたのか、お堅いと思われがちの岩波文庫が『遠野物語』を新字新かなに直しました。既に読んだ物なので、「解説」を見た際、対照して数篇を読んだ以外は適当に読みました。
さて、今度の着目とする『山の人生』にうちて、実は目録を見る限り、『山の人生』『山人考』は共に『山の人生』の孫記事見たいな物のようです。大雑把でいいますと、『遠野物語』は地方の説話を漠然に記録(例えば文辞を弄って文学性を高めようとした所と、性に関わる猥談が省略されたと思われますが、基本的に佐佐木氏の述べた説話採集を意図に変わるまでには至りません。)にとどまりますが、『山の人生』は正にその見聞を素材として、柳田氏の民俗学論考を展開しています。『海上の道』と同じく、はっきりした結論を出なかったものも多いなのですが、カラフルかつ興味深い論考展開が読み甲斐があります。柳田氏は山人存在一筋かと思われるところが有りますが、神隠しに関して、失踪した児女がなんでもいいからせめて生きるという可能性を放棄しない、という生を諦めたくない親の気持ちから発するのではないか、とも述べています。それはトンでも物ではなく、寧ろ非常に合理的、かつぬくもりを感じられる暖かい論考です。そこで、西方に比べたら死に淡泊のように見える東方思想なのですが、本当は何よりも生を大事にしていることも、柳田氏が指摘していました。
また、以前から興味が沸いた深山の婚姻のことについて、ここで節録致します。

 風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻の如く解する習わしは弘く行なわれていたので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、殊に学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入の昔話は、前に既に大要を述べておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式の物の他に、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。龍蛇の婚姻に至っては末遂げて再び還らなかったという例が殊に多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何人も之を愛好する。齢盛りにして忽然と身を隠したとすれば、人に非ずんば何か他の物が、之を求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、目するに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、所謂ビースト・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかの如く、説かんとする事は速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにも未だないのだが、ただ注意してもよい事は日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、また屡新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていた事である。普通の場合には俗に「魅入られた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島などには山に住む馬の神が魅入ったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏い、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向かわねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴さえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうして如何にも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並べて、空想豊かなる好事家が、勝手な尾鰭を附添えたかの如く解する事は、少なくとも私が集めてみた幾つかの旁証が、断じてこれを許さないのである。

『山の人生』深山の婚姻のこと 174

 黒髪ロングの子は、人に愛されるだけではなく、山人もしく神仏、アヤカシにも魅入られやすいと述べていました。
 そして、『山人考』は日本歴史地理学会の演講稿だけあって、尺の都合では『山の人生』ほど多方面を行き渡る合理かつ完整なものにならずとも、より一層はっきりな考え方を述べています。勿論、『山の人生』よりずっと独断の恐れも有りますが、それでも柳田氏の想像力を懾服せずにいられませんでした。私が一番目から鱗を感じたのは、天罪国罪のあたりです。

 我が大御門の御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内には既に幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国つ神と申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾は是れ国つ神、号は脚摩乳。我妻号は手摩乳云云。」また「高皇産霊神大物主神に向ひ、汝若し国つ神を以て妻とせば、吾は猶汝踈き心有りとおもはん。」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣は此れ国つ神、名を珍彦と曰ふ。」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神、名を井光と為す。」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦をも、また国つ神と記しております。
 令の神祇令には天神地祇はいう名を存し、地祇は『倭名抄』の頃まで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓みますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭る事になっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融したものと認められます。『延喜式』の神名帳には、国魂郡魂という類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、既に存置してはいなかったのであります。
 しかも同じ『延喜式』の、中臣の祓詞を見ますると、なお天津罪と国津罪との区別を認めているのです。国津罪とは然らば何を意味するか?『古語拾遺』には国津罪は国中人民犯す処の罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯す処なるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較して見ると、一方は串刺・重播・畔放という如く、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶な物で明白に犯罪の性質に文野の差有る事が認められ、即ち後者は原住民、国つ神の犯す処である事が解ります。日本紀景行天皇四十年の詔に、「東夷の中蝦夷尤も強し。男女交り居り父子別ち無し云云。」とも有ります。何れの時代にこの大祓の詞という物はできたか。とにかくに斯かる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
 同じ祝詞の中には、また次のような語も見えます。日く、「国中に荒振神等を、神問はしに問はし賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて云云。」アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、殊に強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていた物と自分は考えます。

山人考 二 P274

 国津罪を考えるとき、『古語拾遺』の説明を上げるのはよくあることですが、柳田氏が仰った通り、釈然としないところが有ります。それに対して、狩猟する国津神(繩文文化)と農耕する天津神弥生文化)においでの罪だと説明したら、色々納得がつきます。本当に、柳田氏の洞察力に脱帽せずにいられません。
 最後に、本書内容との直接関係がありませんが、桑原武夫氏の解説も引用させていただきたい。学問について、確かに興味深い見解だと思います。

 明治以来、ヨーロッパの実証精神が移入されたが、(江戸時代にも、例えば白石のような大実証家がいなかったわけではないが。)文化科学の領域においてどれだけが実を結んでいるか、その例を数多くあげるのは容易でないように思われる。「近頃の日本の社会生活社会状態に対する言論を見るのに、其名のみは如何に新規であろうとも、ほんとに自分等の目耳で知った事を足場とせず、あべこべに追った民族の調査を、こちらにも斯くあるべしという事を第一前提として、無雑作に拝借着用して居るのが多い。其根底が実に不確かである。」と言われても、我々はこれを暴言として退ける事はできぬと思う。例えば我が国にも美学の本は多い。しかしその所説の根據となる作品は、多くの場合我々常民の見た事もない、ミロのヴィナスであり、ダ・ヴィンチである。学問に国境はないと言われ、これらの作品は世界的永遠的な物であろう。しかしそれらの学者の所説には、言わばこれら外国の傑作の復製との共感から出発したような印象を与える物が少なくない。私などは毎日見る天主堂から建築美を説き、毎週みるコルネイュやモリエールから演劇美を語るアランあたりのような行き方もあって良いはずだと思う。鉄斎や玉堂、或いは奈良の伽藍と仏たち、これらの美もまた世界的な物であると私は信じる。然らばそうした傑作から発足した美学もあって良い訳ではないか。そろいう私の不満は、柳田さんの著作によって慰められる事が多い。かく言えばとて、同氏の学問は決して偏狭な「藩札の学」ではない。氏の目標は常に普遍的な人間学にある。「民間伝承論は単に日本のような資料の豊富な一国に、日本民俗学を建設したいというだけで、もう御終いになるような小さな物であってはならぬ。」「更に練習を積重ねて、末には此複雑を極めた世界全体を一つとして、是を現在の如くならしめた力と法則とを、尋ね出す事も亦決して他の学問の領分では無い筈である。」私はこれを決して大言壮語とは思わない。事実こうした自信なくしては、立派な学問の生まれるはずはないのである。
 「学問が実際生活の疑惑に出発する物であり、論断が事実の認識を基礎とすべき物である限り、国の前代の経過を無視した文化論は有り得ない。」とは私もまた信じる所である。日本文化論の喧しい今日、一部上流読書階級の残した文書に頼るのみに安んぜず、印刷の普及する最近世に至るまで国民の大多数を形づくっていた常民の心を知る事は最も大切であろう。柳田国男氏の詩作が一般の人々の間にも丁寧に読まれる事を切望してやまない。

遠野物語・山の人生』解説 桑原武夫 P317