古事記

古事記・その史観
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20050620#p3
日比野暉彦さんによる、古事記の研究。


観るたびに、『古事記』を再び見ようか、という気持ちが溢れて来ます。私と『古事記』の出会いは、僅かに五年余り前*1のことだけですが、この数年、『古事記』自身をゆっくりそれ読むこと*2は殆どないという気がします。


実は、私が『日本書紀』の電子テキストを作った以来、日本古代史関連のデータ検正は、書紀の方がより重視しています。同じスサノオノミコトだが、素戔鳴尊の方が先に来ます。ヤマトタケルも、倭建命より日本武尊なんです。
よりによって、『竹取物語』の注訳をする時も、讚岐垂根王と迦具夜姫という『古事記』だけの記録以外、殆どの解説は『日本書紀』、『風土記*3などを準ずることになります。私の中には、『古事記』が随分冷遇されたかもしれません。


再び観ると、『古事記』は敝サイトの最初のコンテンツでありながら、日本神話と上古史に対する知識が殆どない私は、それを学習のために集めるデータを整理して作成しました。しかも、作成當初は『古事記』が和漢混和体であることすら知らないまま、中国語訳の『日本神話故事』と中国語訳の『古事記*4を参考して作った。そのあと、友人から『古事記を歩く』という本を貰って、そのダイジェスト版『古事記』を元って、以前が作った『古事記』コンテンツを全面整修してVer.2になる訳です。その後はやっと『古事記』の原文を入手して、三度目の整修をして、Ver.3にありました。さらに何度も何度も修改を重ねていると、今の形になります。何も知らないままから著手したモノから、へたれな文面がよくあります。後で改正したことも有りますが、忘れたものも勿論残ってます。あと、何度もの修訂が有ってから、どちらがメイン底本かどちらが参考底本ですら判らないシロモノになった。という波乱満載の製作過程でしたから、今なって再び観ると、恥ずかしい限りのイロモノと思います。
個人当時の都合で個人当時の読みやすいの形をとりますが、やっぱりへたれの主因になりますが、今も時々修訂してますけど、どう修訂すればいいかも判りません。原文のままなら、中国語サイトである以上「久羅下那洲多陀用幣琉之時(くらげなすただよへるの時=海月なす漂へるの時)」のような文面はあまりよくないと思います。『日本書紀』の用辞によってこの変体漢文を修正するか、『古事記』でなくなるかもしれません。もっとも、敝サイトの『古事記』コンテンツを作った時は学術価値も研究価値も考えたことはない、私を込めて日本神話を知らない人のための入門用モノだけ。ということです。もっと厳謹の電子テキストモノはここで電子テキストと註明したコンテンツ*5だけでいい、と思いますからやっぱりアレをへたれのまま置きます。いつか全面改訂するかもしれませんが、今は暫くこのままに置くの可能性が高いと思います。


何で今更こんなことを言うというのでしょうか?それはbrageloneさんの処で、「古事記の写本の中にさえ《淡路》と写すものがあるが《記では必ず〈淡道〉と書き〈淡路〉とは書かない。》」という注釈が拝見したからです。何故なら、再び観ると私のサイトにあるコンテンツは「坐淡路*6之多賀也。*7」であったから、先は慌てて改正しました。


 さて、何で私が「坐淡路之多賀也。」と書いたのでしょう。正直、はっきり忘れました。ネットにある『古事記』の原文電子テキストは真福寺*8を準ずるから、道果本*9のように「坐淡路也。」と書くわけありません、しかも道果本なら多賀だと書きません。ならば、多分中国語訳『日本神話故事』と中国語訳『古事記』と『古事記を歩く』のどちらか「坐淡路之多賀也。」と書いたわけだと思います。どちらも長い間に読まなかったから、無くなった可能もあります。一番探し出すのは『日本神話故事』、そこは「而後伊邪那岐就回到淡海的多賀。(そのあと、イザナギは淡海の多賀に戻った。)」と書きました。ちゃんと『古事記』の一般解釈を取ります。そして、中国語訳『古事記』と『古事記を歩く』は...見つかりませんでした(汗)。でも、記憶が間違いない限り、中国語訳『古事記』は真福寺本を準ずる筈から、やっぱり一番怪しいのは『古事記を歩く』でしょう、と思いながらやっと『古事記を歩く』を見つけました。やっぱり、そこは「自ら淡路国の多賀の地に引き篭ってしまった。」と書きました。うん、そうなると...作者の佐藤高さん、もしかして伊勢系の人間ですか?(笑)*10



*1:つまり、2000年、『久遠の絆』をやった以後、その前は『古事記』のタイトルさえ知りませんでした。

*2:時々言及することがありますが、これだけに止まります。

*3:しかも、『先代旧事本紀』まで『古事記』より優先かも(汗)...

*4:そう言えば、この辺の書物について、私が所持の中国語版はこの二つしかありませんのようです。

*5:というか、何れも学術レベルに至りません。確かに便利の物ですが、学術研究の際みはやっぱり原本を調べてください。

*6:此方は「淡海説」と「淡路説」が有ります。卜部本系写本は淡海、伊勢本系写本は淡道(あるいは淡路)となります。勿論、近江の多賀大社は前者、淡路の伊弉諾神宮は後者と『日本書紀』を支持します。でも、紀には多賀を言及しません。

*7:でも、国生神話のところはちゃんと「淡道之穂之狹別島」と書きます。

*8:現存『古事記』で一番古い写本です。

*9:現存『古事記』で二番古い写本、真福寺本より十数年後抄畢したのです。

*10:実は私も淡路説です。太安万侶一人撰定の『古事記』より、多人撰定の『日本書紀』の考証が上手い筈ではないか...