クリーンルーム初体験

クリーンルーム初体験でしたが、クラス10000だからそんなに厳しくないんです。
が、イエロールームに二時間居て、出るところ人の顔をこんな色に見えた...


続日本紀
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syokki/syokki31.htm
巻卅一、左大臣藤原永手薨すまで。
称徳天皇の晩期、オカシイと見られる執政が多くあります。
その一つは仏教の過度重視と道鏡の専権ということ。
そして、称徳天皇死後、藤原永手光仁天皇の行政には一番目立つのは、そのバランスを取り戻すと思います。
よって、道鏡の追放、そして称徳天皇に流配された人々を召還、罪を免除し続けたことが見られます。
が、それを不愉快と思った人も居る。かつの仏教勢力であった、彼らとって藤原永手は仏敵でしか何もない。
よって、『日本霊異記』下巻には「卅三・減塔階仆寺幢得惡報縁」がある。

減塔階仆寺幢得惡報縁 第卅六


正一位藤原朝臣永手者諾樂宮御宇白壁天皇御時太政大臣延暦元年頃大臣之子從四位上家依為父惡夢見而白父言不知兵士卅餘人來召父尊此惡表相故應謝除雖然白驚而父不應然後父卒時子家依得久病故請召禪師優婆塞而令咒護猶不愈差時看病眾中有一禪師發誓願言凡憑佛法修行大意救他活命今我壽施病者代身佛法實有病人命活棄命不 睠手於置 爝燒香行道讀陀羅尼而忽走轉時病者託言我永手也我令仆乎法花寺幢後西大寺八角塔成四角七層減五層也由此罪召我於閻羅王闕令抱火柱以挫釘打立我手於而問打拍今閻羅王宮內煙滿王問何煙答曰永手之子家依受病而痛咒之禪師手於燒香彼煙也即閻羅王免我擯返 然我體滅無所寄宿故道中漂於是不食病者乞邗而食差病起居夫幢是招轉輪王報之善因也塔是收三世佛舍利之寶藏也故依幢仆得罪由塔高減被罪也不應不恐是近現報也

要する、永手が法華寺の幢を倒し、西大寺八角の塔を四角にして七層を五層に減した罪により、死後閻羅王の責に遭ったとする喧嘩売るみたいな説話でした。
前回長屋王説話と同レベルのへたれ宗教勧誘にしか見えないな...


■「于」と「於」

 小島憲之は、文武紀では助字「于」の使用が「於」よりかなり目立ち、桓武紀ではその反対と指摘している。しかし、実際は巻ごとで文章の分量に相当の違いがあるため、そのままでは比較することができない。従って、本稿末尾の〔補注〕に示すような係数で調整したものを基づいて、この点を検証してみる。それによると、確かに文武紀における「于」は目立って多いことが証明される。ただ、「於」との関係で観ると、巻一から巻六まで、即ち文武・元明紀に「于」の使用が多いと観ることも可能である。その後の巻では巻廿一・廿四などにやや多いが、巻廿一の九例の八例は遣渤海使小野朝臣田手等の唐の情勢を知らせる奏文の中に見られるというような偏りも見える。一方、桓武紀では、「於」の用例は特に巻四十での用例数が実数としては多いが、調整してみると他の巻とあまり大差がない。つまり、「於」が目立つのではなく、単に「于」の少なさが目立つのである。相対的には巻十九・巻廿一に多く出現していることが判る。

新大系続日本紀』四 解説P648


菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm

044 花下餞諸同門出外吏,各分一字 探得轅。


    送客何先點淚痕 應緣別後不同門 今朝記得歸來日 萬里程間一折轅

菅原道真菅家文草』巻第一0044


陸奥話記
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/mutuwaki/mutu.htm
準備中、今は第十六まで。


■悲劇の島エロマンガ(Ralfxさん提供)
http://www.apa-apa.net/kok/news/kok198.htm


■福岡のメードカフェに風俗営業指定
http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-051015-0007.html


■楊威利語録
http://air.myweb.hinet.net/yang.htm