日本紀竟宴和歌

日本紀竟宴和歌
この間、続群書類従の底本により日本紀竟宴和歌の電子テキストを作っています。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kyouen/nihonki/nihonkikyouen.htm
続群書類従には注釈がありませんので、色々と確信できないものがあります。
一番面倒なのは、竟宴和歌そのものにはいい加減のものが多いから、
意味不明は解読力不足によるものか、歌自身わけ分からないとの判別も付きかねます。

たとえばこの歌:

日本武尊

  • 也末度多介 仁之比无賀志乃 久爾遠宇知天 太飛良介末世之 美古仁波也良奴

  • 日本武尊(やまとたけ) 西日向(にしひむかし)の (くに)()ちて (たひら)けませし 皇子(みこ)には()らぬ

    • 大足彦忍代別(おほたらしひこおしろわけ)天皇日本武尊(やまとたけのみこと)熊襲(くまそ),遂得鎮西國(にしのくにしづまれり)云。

參議正三位行左衛門督伊豫守藤原朝臣有實 【藤原有實】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kyouen/nihonki/nke01.htm#035

自信がない、特に「みこにはやらぬ」の辺りはイマイチ自信がありません....


そしれ、気づけば「にしひむかし」ってのは最初に思った「西東」ではなく「西日向」でした。
もし「ひむか」なら日向国だとわかりますが...「ひむかし」であれば「東」にしてしまいました。修正。
一応、日本武尊は東征西討両方やりましたのですが、左注には西征の話のみ言いましたので西日向にしたほうが妥当だと思います。


でもやっぱり「みこにはやらぬ」が訳分かりません。
漢字は自分で当たったものなので信用に値しないものだと思いますが、それ以外の解釈も思いつきません。
先ほどもいいましたのですが、そもそも竟宴和歌には意味不明な歌が出たりりします。
ここでMunyuさんのブログを引用致します。

さて小野好古の歌です。


物部麁鹿火大連 従四位下行左中弁小野朝臣好古

  • あらかひは(阿羅賀比羽) つくしのいはゐ(都久志野伊者井) たひらけて(多裨良気弖) こころゆかすぞ(古許呂由賀須曽) おもふへらなる(於毛布倍良奈留)

歌は、

  • 麁鹿火(あらかひ)は 筑紫(つくし)磐井(いはゐ) (たひら)げて 心行(こころゆ)かずぞ (おも)ふべらなる」

です。
左注は、

    • 「男大迹天皇の御世に、筑紫の磐井そむけり。天皇(すめら)、麁鹿火連を遣はして、討ち平げしめたり。」

です。
ううむ…“物部麁鹿火は、筑紫の磐井を討ち平らげたけど、満足できないと思っているようだ”?? よく意味がわかりません。麁鹿火の勇猛さを称えて、磐井を倒しただけでは飽き足らず、逆賊がもっと大量にいたらさらに戦って滅ぼしてやったのに、実際にはいないから不満足だということでしょうか?

http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51865997.html

いや分かりませんね。意味不明というか強引過ぎる気がします。


どうしても安心できず、困るときは神頼りではなく友人頼りです。
中川さんからはじめ、友人達からアドバイスを頂きました、やっぱり絶対こうだ、とは行きませんでしたが、
まぁ、それなり心強くなるのが否めない事実でもあります。
まず「みこにはやらぬ」のみことは何でしょうか?
私は「皇子」にしましたが、他に「巫女」「御子」「神子」「三子」「三鈷」などの漢字が当てられます。
いやこれだけではなく、「美古」は「みこ」ではなく「みご」の可能もあります。
とは言いたいのですが、流石見苦しいのでとりあえずパス。「みこは」「みごは」も同じく。
では「三子」「三鈷」と日本武尊の関係が想像できませんので可能性が低いと思います。
「巫女」と「神子」は同じく、どちらと言えば倭姫命に連想され易い。あの漫画を考えてみれば弟橘姫もアリですが...
流石漫画オリジナル設定だけあってここではノーカウント致します。それでも伝説上「人身御供」感が強烈で必ず巫女でないとも言えません。
佐用姫とか佐用姫とか佐用姫とか...「巫女(オトタチバナたん)は俺のもんだ、嫁は遣らん」と言い出すMunyuさんの姿が目に浮かびました。(おい)
話が逸らし過ぎました、「御子」と「皇子」はほぼ同定出来ますので、日本武尊大碓命のどちらかになります。
「皇子には遣らぬ」なら大碓命だろうと思いますが、そこまで出てなかっただけで不安が募ります。
ですが、中川さんも同意見のようで何よりです。あとお節介っ子も同意見でした。


以下は、中川さんとの対話のログです。

  • Satoshi Nakagawa: この皇子ってのは兄さんのことかな。
  • Satoshi Nakagawa: 僕もよくわからないです。「遣らぬ」って「派遣しない」ってことですよね。
  • Satoshi Nakagawa: つまり、「征西には派遣しない」かなと思って、兄かなと。無理があるか。
  • Satoshi Nakagawa: 派遣しないも何も殺されちゃってますしね。
  • 浦木裕: 日本書紀では殺されませんでしたよ
  • Satoshi Nakagawa: あれ?そうだっけ。→そうでした。
  • 浦木裕: まぁ、ヤマトタケルの話ほど記紀が南轅北轍するものがありませんが
  • 浦木裕: 原文ではみこしか書いてませんから、私の漢字当てに間違いがあるかもしれませんが
  • Satoshi Nakagawa: いや、「遣らぬ」ぐらいしか思いつかないですね。
  • 浦木裕: やっぱりそうですか...少し安心しました(死)
  • Satoshi Nakagawa: あと、破らぬ…壊さない どう考えても違う。
  • Satoshi Nakagawa: 「ヤマトタケルは西東の国を平定した。(兄の)皇子には(東征)をさせなかった。」これでどうですか?「にしひんがし」は西東ならこれでもいけますね。
  • 浦木裕: 「にしひんがし」ならそうかもしれませんが、脚註は東征の話を言及しませんでしたから、やっぱり西日向のままにします。このコンテンツは和歌を中国語訳する予定がありませんからとりあえず「皇子には遣らぬ」のままに置きましょう
  • 浦木裕: 参考資料が手に入り、やっぱり「みこにはやらぬ」が別の漢字に当たったほうが正しい場合に修正致します
  • Satoshi Nakagawa: 脚註は東征の話を言及しませんでしたから。そうなんですよね。そこは確かに気になるんで、授業で日本紀竟宴和歌やったときの記憶では、左注(左にあるんでそういいます)は結構いいかげんなのと、歌としてはつまらないというかストレートなのが多いんで、こんな感じでいいのかなと思いました。

まとめてみると、私が唯「左注は結構いいかげんなのと、歌としてはつまらない」と強調したいのかもしれないと今更気づきました..._| ̄|○
いろいろとすみません...(汗)


ちなみに、そもそもベつの落ちにしたのではないか、という考えもあります。
西征の話ですから、川上梟帥が

自今以後號皇子應稱日本武皇子。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki07.htm#sk07_06

と言っていました。それが日本武尊の名前の由来になります。
もし、「みこにはやらぬ」はこれの事だと西征の話が纏められる気がしますが...「にはやらぬ」との関連が分かりません
やっぱり、強引過ぎると思います。


台湾大学図書館は竟宴和歌の本を購入する予定があるそうですから、あちらが購入したかあれを借りて参考しようと思います。
少なくとも続類従より説明が詳しいのはずですから。


ただいま、Munyuさんの追記を観測致しました。

好古が太宰府に拠る藤原純友を倒したのは天慶四年。そして、講筵が終わって竟宴が開かれたのは天慶六年。
好古は自分と麁鹿火を重ね合わせて、この歌を詠んだんですね。
なら、上のように訳した意味で、「私もまだまだ朝廷のために戦います」と言うのはアリかもしれません。

http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51865997.html

そう考えると歌には意味深なところを感じられ俄かに面白くなります。
すこしても竟宴和歌に面白さを感じられようと、ただ今歌ごと左注の最後に日本紀もしく太子伝暦へのリンクを追加いたしました。


最後、得雄朝嬬稚子宿禰天皇の式部卿是忠は是忠親王のことに違いませんが、得瑞齒別天皇兵部卿貞保は誰でしょうか?
貞保親王なら、上野太守、中務卿、式部卿を歴任して式部卿貞保親王の名で呼ばわれますが兵部卿とは...公卿補任でもチェックしたほうがいいかな...つかあれはで太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・非参議しか載ってませんから

 貞保親王,元慶六年,與陽成帝同冠,敘三品。尋為上野太守,任中務卿。【三代實録。】後進二品,轉式部卿。延長二年六月,薨,【日本紀略一代要記。】年五十五。【日本紀略。】稱南宮,【皇胤紹運録、帝王編年記。】又稱桂親王。【帝王編年記。】尤長音律,著南竹譚,【體源抄。】世稱管絃仙。【帝王編年記。】貞保嘗遊桂川山莊,夜奏五常樂,燈下恍惚見衣冠人,謂曰:「吾是唐家廉承武也。凡奏五常樂急,逮一百回必來。」忽然不見。【古今著聞集。】子國忠、國珍,並賜姓源朝臣。國忠,從五位下,【皇胤紹運録、尊卑分脈。】內藏頭。【尊卑分脈。】國珍,從四位上,內藏頭、【皇胤紹運録。】春宮大進。【○皇胤紹運録作春宮大夫,今從尊卑分脈。○按紹運録載國珍弟基淵,然諸書不載,今不取。】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dns092.htm

大日本史にも兵部卿補任の記録がなく、日本紀略には延喜年間の記録には延喜四年以前は惟恒親王でした。

延喜四年四月八日、兵部卿三品惟恒親王、薨。

そして、延長元年では敦固親王兵部卿だそうです。

延長元年二月十日、無品慶子内親王、薨。今上第三皇女。兵部卿敦固親王之室也。

延喜四年から延長元年の間には十数年もありますが、ちょっと分かりませんでした。
百歩譲れて歌を書いたのは貞保親王だとしたら延喜六年の任官はなんでしょう?三代實録では仁和二年頃は中務卿でした。

廿六日甲戌敕:「以三品行中務卿貞保親王、為右相撲司別當。去元慶八年、以二品行式部卿本康親王、為左相撲司別當、今不改。」

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sandai/sdj49.htm

日本紀略延長二年

十九日丙戌、二品行式部卿貞保親王、薨。年五十九。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/b01.htm#engi

延喜元年十二月以前の式部卿は本康親王でして薨去された頃から着任したのは是忠親王でした。

延喜元年十二月十四日、一品式部卿本康親王、薨。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/b01.htm#engi

延喜七年七月七日、式部卿是忠親王、供養天台佛眼院。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/b01.htm#engi

そして延喜二十年、是忠親王が入道して廿二年にで薨去されました。

延喜二十年閏六月九日、一品式部卿是忠親王、出家。號南院親王

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/b01.htm#engi

延喜廿二年十一月廿二日、入道式部卿是忠親王、薨。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/b01.htm#engi

是忠親王は入道により致仕したのか、それともなおも式部卿の位を持つままなのかはちょっと微妙なんですが、
こうから見ると、延喜六年の貞保親王中務卿で、式部卿が是忠親王だと思います。
もしく竟宴和歌を信用して中務卿から式部卿になった間に兵部卿を着任しかのか...
それなら惟恒親王の後任で敦固親王の前任として兵部卿を就いていたのかもしれません。



■総統閣下はアマガミにはまり、第三帝国を巻き込むようです

総統閣下!!!!
副首領閣下鳥海浩輔曰く:「全くこの国って面白い。」



■「ギリシア語ヘルメス文書」集成
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/ch_index.html


■総統閣下は中国史と中国古典のことで憤っています

君の怒りが正しい!