秋葉原の路上で乱闘騒ぎが発生しています

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マンガで分かる心療内科



■『日本鬼子』に続き『小日本』(こひのもと/こにぽん)が決定
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俺には完璧に守備範囲外.....



装甲騎兵ボトムズ 赫奕たる異端

装甲騎兵ボトムズ赫奕たる異端 (Media comix)

装甲騎兵ボトムズ赫奕たる異端 (Media comix)

漫画版赫奕たる異端、読了。アニメを無難に纏めました。黒髪ロングになったフィアナが薄幸美人過ぎます。


■メモ

衣縫金継女 きぬぬいの-かなつぐの-むすめ

?−?平安時代前期の女性。
河内(かわち)(大阪府)志紀郡にすむ。12歳で父と死別。冬期,恵賀河をわたる人の苦しみをみて,母と15年間仮橋づくりをつづけた。承和(じょうわ)8年(841)仁明(にんみょう)天皇は三階の位をあたえ,田租を免じた。

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阿保親王【あぼしんのう】
生年: 延暦11 (792)
没年: 承和9.10.22 (842.11.27)
平安初期の平城天皇の第一子で母は葛井藤子(番長藤姫とも)。弘仁1(810)年9月の薬子の変連座して大宰権帥に左遷され(兄高岳親王廃太子),天長1(824)年,許されて帰京した。大宰府(太宰府市)にある間に仲平,行平らをもうけたが,帰京後伊都内親王(桓武天皇の皇女)と結婚,その間に業平をもうけている。天長3年上奏し,高岳親王の男女と同様,子息の改賜姓を願い,仲平,行平,守平らに在原朝臣を賜姓された。子としては他に本主がいたが,母は仲平や業平らのそれとも別である。親王任国の上総をはじめ下総,上野,下野大守を歴任,承和9(842)年7月春宮坊帯刀の伴健岑,但馬権守橘逸勢らが謀反を企てたとき,健岑から請われたが,親王自身が太皇太后橘嘉智子に密告し,ことは失敗に帰した(承和の変)。墓と伝えるものが芦屋市などにある。
(村井康彦)

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菅原清公【すがわらのきよきみ】
生年: 宝亀1 (770)
没年: 承和9.10.17 (842.11.22)
平安初期の公卿,文人。古人の4男。道真の祖父。「きよとも」とも。従三位。家が貧しかったため苦学して経史を学び,延暦3(784)年,皇太子早良親王に侍し,次いで文章生となった。同23年,遣唐判官として入唐(翌年帰国),のち嵯峨天皇が儀式衣服を唐様に改め,内裏殿舎,諸門にも唐風名の新額を掲げさせるなどの朝儀改善を行ったのは,新知見を得た清公の進言による。平安京の左京,右京をそれぞれ洛陽城,長安城と呼んだのも同様。『文選』や『後漢書』を進講するなど学者としても著名で,天長1(824)年,播磨権守として赴任したときには,その才能を惜しむ公卿たちが,国の元老を遠くに離すべきではないとして議奏,翌年召還されたほどだった。晩年歩行が困難になったとき,牛車での参内を許されている。常に名薬を服し,容貌が衰えなかったというが,入唐の際に得たものか。『凌雲集』『文華秀麗集』の選述や『令集解』の編纂にも参画した。(村井康彦)

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朝野鹿取【あさののかとり】
生年: 宝亀5 (774)
没年: 承和10.6.11 (843.7.11)
平安初期の公卿,文人大和国正六位上忍海原鷹取の子。大学での勉強に当たり,家格の低さから叔父である正六位上朝野道長の養子となって都に上ったが,延暦11(792)年自ら申し出て父の戸籍(本姓)に戻っている。「すこぶる史漢に渉り,かねて漢音を知る」といわれ,その知識を買われて同21年遣唐准録事(准主典)として入唐,帰国後は『日本後紀』『内裏式』の編纂に携わる一方,皇太子神野親王(のちの嵯峨天皇)の侍講を務めている。天長10(833)年参議に昇進,博識の能吏として人望も厚かった。その詩文は『文華秀麗集』に収める。神楽歌や催馬楽など宮廷儀礼歌の名手でもあった。(瀧浪貞子

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藤原緒嗣【ふじわらのおつぐ】
生年: 宝亀5 (774)
没年: 承和10.7.23 (843.8.22)
平安前期の公卿。式家百川と伊勢大津の娘の子。山本大臣とも。父が擁立した桓武天皇の恩寵を受け,異例の昇進を重ねた。延暦7(788)年の元服に際して天皇自ら加冠し,同21年,29歳の若さで参議に抜擢された。参議任命は神泉苑での宴席で行われ,その際天皇は「緒嗣の父(百川)なかりせば,予,あに帝位を践むを得んや」といって涙を流している。同24年12月,天皇の求めにより,その面前で菅野道真と「よい政治とは何か」について論争(徳政相論)し,平安京の造営と蝦夷の経略とが民を苦しめる根源であるとして,この両事業の停止を強く主張,これが桓武天皇の認めるところとなって造宮職は廃止された。これは政術に暁達し,国の利害にかかわる重大事を知れば必ず奏上したというほどの直言居士だった緒嗣が,もっとも真価を発揮した場面といってよいが,その強直で偏執的な性格が嫌われ,仲間から孤立する原因ともなった。大同3(808)年には皮肉にも民苦のひとつと主張した蝦夷経略にかかわる陸奥出羽按察使に任命され,これを固辞したが,結局赴任している。桓武天皇没後はしだいにうとまれ,病弱なこともあって年下の藤原冬嗣に越階されるが,冬嗣没後は政界の首班となり,天長9(832)年左大臣に任じられている。しかし前半生に比べて目立った活躍はない。『新撰姓氏録』『日本後紀』の編纂に関与。「当時第一の富人」といわれ,法輪寺(京都市東山区泉涌寺)やその北の今熊野観音寺は緒嗣の造営と伝えられる。<参考文献>阿部猛『平安前期政治史の研究』(瀧浪貞子

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刑部刀自竎【おさかべの-とじめ】

?−?平安時代前期の女性。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)の人。
夫広主の死後その貞節国司の耳にはいり,承和(じょうわ)13年(846)仁明天皇から位二階をあたえられ,終身田租を免じられたという。

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伴富成 とみなり

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