佐藤朱鷺子(みちのく秘湯恋物語)の誕生日♪


称徳天皇孝謙天皇)の死因

 寶龜元年三月十五日,天皇聖體不豫,不視朝百餘日.天皇道鏡法師,將失天下.道鏡欲快帝心,於由義宮,以雜物進之.不得拔.於是,寶命白頹,醫藥無驗.或尼一人出來云:「梓木作金筋,塗油挾出.則全寶命.」百川竊逐卻.皇帝遂八月四日崩.天皇平生未立皇太子.至此,右大臣-真備等論曰:「御史大夫-從二位-文室-淨三真人,是長親王之子也.立為皇太子.」百川與左大臣.永手内大臣.良繼論云:「淨三真人有子十三人,如後世何?」真備等都不聽之.圍淨三真人為皇太子.淨三推辭,仍更圍其弟-參議-從三位-文室大-市真人為皇太子.亦所辭之.百川與永手、良繼定策,偽作宣命語.宣命使立庭令宣制.右大臣-真備卷舌無如何.百川即命諸仗圍白壁王為皇太子.
 十一月一日壬子,即位於大極殿.
 右大臣-吉備亂云:「長生之弊,還遭此恥!」上致仕表,隱居.

日本紀略

ここ日本紀略に載る称徳天皇の死因が続日本紀と違う事を知ってて、興味が湧いて調べてみました。いや、いやらしいわ...


菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm

166 山寺 廿頌十四。


    古寺人蹤絕 僧房插白雲 門當秋水見 鐘逐曉風聞

    老臘高僧積 深苔小道分 文珠何處在 歸路趁香蟬

菅原道真菅家文草』巻第一0166


■『前賢故実』「田道間守」
http://blog.goo.ne.jp/kuonkizuna1601/e/93a1351371b5ac7a05469c0c25a0eb3b

田道間守(たじまもり)


 田道間守。
 垂仁帝九十年春二月,命田道間守使求橘于常世國。得之而歸。時帝己崩矣。於是哀慟曰:「嘗奉命,遠至絕域,踏浪度險。往還十年。今而無所復命。臣雖生,亦何為?」遂伏陵下,哭泣而死。群臣為之流涕。

菊池容斎前賢故実


田村草子

 有時鈴鹿仰けるは、一年大嶽丸が、釼明連(けみゃうれん)の劍を取残せしし故に、魂魄(こんはく)残て天竺へ歸り、又日本へ渡り、陸奥の國に、霧(きり)山ヶ嶽に立て篭りて、世の妨げを成すべきとの瑞相(ずいさう)有、急ぎ都に上り、良き馬を求め給へと仰ければ、やがて上洛 ( しやうらく ) して馬を尋ね給ふ所に、五條の傍らに、すみあらしたる館(やかた)に立寄り見れば、二百さいにも及びたる大きな、馬屋の前にねふり居たり、又世の常の馬五つばかり一つにしたる程の馬を、金鎖(かなくさり)にて、八方へ繋ぎたるが、百日にも巻くさくれたり共見えす、引き立つる共一足も行くべきとも見えず、俊宗此馬売るべきかと仰ければ、大きな嘲笑ひ何の用に此馬買ひ給ふべき、欲しくは値はいるべからず、引かせ給へと言ふ、俊宗嬉しく思し召し、明日引かせ申さんとて、歸り給ひて、斯の大き何百石百貫に色好き小袖を添へて下(くだ)したぶ、大きな大きに悦びけるなり。さて其馬を買ひ給ふに、世中に並び無き名馬にて、俊宗乗り給へば、山を駈けり海を渡るも、同じ平地の如し、不思議に思し召し、鈴鹿へ行(ゆ)かんと思ひ乗り出し給へば、刹那か間に着き給ふ。鈴鹿御前は御覧じて、天晴(あつはれ)御馬(むま)候、これに召されて、陸奥の國霧山ヶ嶽を御覧しをかれ候へ、大嶽丸が來り候共、駒の足立を知らせ給はば、唯一かせんのしやうぶそと仰られければ、やがて此駒に打乗りて、東を指して打ち給ふに、反しの間に、霧山當たりを駆け回り、元の所に歸り給ふ、斯くて月日をすぐし給へば、案の如く、大嶽丸かしんはく、元の如くに成て、霧山ヶ峰に居て、人を捕る事限りなし、此由相聞申ければ、二十萬騎(ぎ)の軍兵(ぐんびやう)を田村將軍に付け給ひて、急ぎ討つ立つべしとの宣旨なり。俊宗畏まつて受け給り、此由鈴鹿に語り給へば、人數はさやうに入べからす、唯御手勢(てぜい)謀り連れ給ふべしとて、皆人人をは返し給ひて、五百よきの手せい謀り召し連れ給ふ、都より霧山までは三十五日の道なるを、軍兵共をばさきに立て、俊宗は鈴鹿御前と酒宴管絃(しゆゑんくはんげん)、様様の御遊びにて、七日の末より八月半ばまで、夜と共の御遊(ゆ)ふ様様なりしか、都を出て三十四日と申に鈴鹿を出る、御前は飛行(ひぎやう)の車に召す、俊宗は斯の駒に打乗り、へんしの間に、霧山の麓に着き給ふに、軍兵共は今た二時ばかり後に着きける、去程に鬼神は山を掘り抜き、口には大磐石(ばんしゃく)を戸枚として、せめ入べきやう話、去れ共田村は、兼ねて案内(あんない)走るなり、絡め手に廻り、せめ入て見給へば、大嶽丸は無かりけり、門守りの鬼一人出、何者なれは、我に案内も岩で通るらん、物見せんとて、鐵のばうにて討たんととすれば、俊宗扇(あふぎ)にて打下し、憎(にく)き者の振る舞ひかなとて、 先戒(いまし)めて引出す、扨大嶽(たけ)は幾つに有そと問ひ給へば、八大王(わう)と申は我らかしうの主也、蝦夷ヶ嶋(ゑそがしま)に坐します、御見舞ひの為に、昨日御輿(こし)候程に、やがて歸り給はんと申せば、俄かに空曇り、雷(かみなり)して、黒雲一叢の中より、鬼の聲凄まじくして、あら珍しいや田村殿、久敷き程の減算(げんさん)也、一年伊勢の鈴鹿山にて、御身は某を打ち止めたりと思ふらん、我は其の頃天竺に用有て、玉しゐ一つの輿をきて歸る也、其れを我本體を思ふらん、人間の智慧(ちゑ)の浅ましさよと、笑ひければ、田村聞給ひて、其れは去事も有べし、汝か劍は如何にと仰ければ、是こそ釼明連(けみゃうれん)よそて差し上る、俊宗御覧じて嬉しし嬉しし、二つの劍は給りて、日本の宝となし、今一つの劍を取り残し、心に掛かり思ひしに、此までの持参何より満足也との給へば、大嶽丸腹を立て、何のわつはに物無いはせそ、三面鬼は無きかと言へば、面の三つ有る赤き鬼、躍り出て、大石を雨の降る程打けれ共、一つも当たらず。其時俊宗、例の大弓に鏑矢つがひ、暫し固めて放ち給へば、三面鬼かまつかうい砕かれ、朝の霧と消えにけり、大嶽腹を据へかね、手取にせんと、半町ばかり一飛に飛んで懸るを、飛ちかえて切給へば、首は前に落ちけるか、其のまま天へ舞上がる、鈴鹿御前は御覧じて、此首只今落ちかかるべし、用心あれとて、鎧甲を重てき給ふに、二時計有て鳴渡り、田村の甲の手偏(てへん)に位(くらひ)付、俊宗甲を脱ぎ御覧するに、其まま首は死にける。残の眷族共には繩を掛け、引上り、皆切て獄門(ごくもん)に懸られける、又大御丸が首をば、末代の傳へにとて、家の寶蔵(ほうそう)に納、千本の大頭と申て、今の世までも、見越し先に渡るは、この大嶽丸が頭也。


立喰師列伝
http://www.tachiguishi.com/trailer.html
立喰師列伝、予告公開。
小説は読了、OSTは注文済み、DVDは何時か出るかな...