太詔戸命

一、太詔戸命は言靈の神格化
 私の父は大變な平田篤胤翁の崇拜家であつただけに、草深い片田舍の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であつた[三]。其の父が生前に書き殘して置いた物の中に、『六月晦大祓』の祝詞の一節に「天つ菅麻を、本刈斷ち末打切りて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ、斯く宣らば天つ神は。」云云とある『太祝詞』とは何の事か知るに由が無いと云ふ意味が記してあつた。私は深く此事を記憶してゐて、爾來、本居・平田兩翁の古典の研究を始め、伴信友橘守部・鈴木重胤等の各先覺の著書を讀む折には、必ず特に『太詔詞』の一句に注意を拂つて來たのであるけれども、私の不敏の為か、今に此の一句の正體を突き留める事が出来ぬのである。それでは、代代の先覺者には、此事が充分に解釋されてゐたかと云ふに、どうも左樣では無くして、多分こんな事だらう位の推し當ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位の物に過ぎぬのである。斯く碩學宏聞の大家にあつても、正體を知る事の出来なかつた太詔詞の一句、田舍親爺の父等に知れべき筈の無いのは、寧ろ當然と云ふべきである。然らば、其の太詔詞とは如何なる物であるか、先づ二三の用例を舉げるとする。
 太詔詞の初見は『日本書紀』神代卷の一書に、「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宜之。」の其れで、祝詞では前揭の大祓の外にも散見してゐるが、重なる物を舉ければ「鎮火祭」には二箇所有つて、前は「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん。」とあり、後は、「和稻、荒稻に至るまでに、鋤メ山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す。」とある。「道饗祭」には、「神官、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等諸聞しめせと宣る。」とあり、此れも前に引用した『中臣壽詞』には「此御櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ。」とあり、更に『萬葉集』卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝。」と載せてある。


大日本史

 大野東人,糺職大夫果安子也。元明帝時,敘正位上。和銅中,新羅使來朝,東人與從六位下布勢人,奉騎兵迎於三碕。【○本書碕一作椅。】養老中,進從五位下。神龜初,陸奧蝦夷反,從式部卿藤京宇合討之。【續日本紀。】東人建議:「築多賀城,防遏蝦夷。」【多賀城碑。】賞功授從四位下勳四等,為陸奧鎮守將軍,兼按察使。天平中,奏言:「在鎮兵士,宜錄功授官位,以勸後人。」從之。尋敘從四位上。又奏云:「從陸奧達出羽柵,道經男勝,行程迂遠。請征男勝蝦夷,以通直路。」詔遺兵部卿藤原麻呂等擊之。麻呂與東人率諸國兵,進破之。蝦夷悉降。東人之計居多,語在麻呂傳。麻呂奏使東人鎮多賀柵,兼大養恕y守。十一年,拜參議。太宰大貳藤原廣嗣起兵,朝廷以東人為大將軍,持節討之。從五位上紀飯麻呂副之。發東海、東山、山陰、山陽、南海五道兵一萬七千,又召隼人,授位賜服,令從軍。會遣新羅使船泊長門,敕取其所載器物,以充軍用。使人有才者,量任用之。東人與戰,斬賊將小長谷常人、凡河內田道等,降登美、板櫃、京都三營賊兵一千七百六十七人,並獲器械若干。又差長門豐浦郡小領額田部廣麻呂,將精兵先濟板櫃。遣從五位上佐伯常人、從五位下安倍蟲麻呂,將兵四千及隼人,鎮板櫃營,而自將後至兵繼進。賊將楉田勢麻呂、膳東人、勇山伎美麻呂、佐伯豐石等皆降。詔曰:「朕有所思,今月之末,暫往關東,雖非其時事,事不得已。將軍知之,莫有所疑。」廣嗣逆戰於板櫃河,眾潰,斬廣嗣及弟綱手。十三年,以功敘從三位。帝幸恭仁宮,東人留守平城。十四年,薨。【續日本紀。】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

南オセチアグルジア軍侵攻・ロシア軍介入


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