太詔詞

 而して是等の用例に現はれたる太詔詞に對する諸先覺の考證を檢討せんに、先づ賀茂真淵翁の說を略記すると、「或人﹝中略﹞、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也。」とて[四]、大祓の外に別に太詔詞有る事を云はず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れてゐぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也。」として[五]、賀茂說を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うてゐぬ。然るに、平田篤胤翁に至つては、例の翁の臆斷を以て、異說を試みてゐる。
茲に其の梗慨を記すと、

  • 祝詞天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事を(乎)宣れ(禮)とは何を宣る事とかせむ。

 と言われた迄は卓見であるが、更に一步を進めて、太祝詞の正體は、

  • 太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ。

 とて[六]、遂に禊祓を太祝詞と斷定したのである。鈴木重胤は平田說に示唆されて一段と發展し、伯家に傳りし大祓式に三種ノ祝詞有るを論據として、遂に太詔詞は、

  • 吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普(遠)は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云也、加身(神)は神(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり、依身(惠)は能看(エミ)、多女(賜)は可給(タメ)と云ふ事にて。﹝中略﹞簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり。﹝中略﹞此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なる物也、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給へ(幣)清給へ(幣)の語を添て申すを以て曉(さと)る可き也云云。

 と主張してゐる[七]。


大日本史

 田中多太麻呂,寶字中,任中衛員外少將,兼上總員外介,敘從五位上,為東海道節度副使陸奧守,兼鎮守副將軍,尋拜鎮守將軍。景雲中,伊治城成,敕曰:「見陸奧國所奏,知伊治城成。版築之功,不滿三旬。朕甚嘉焉。夫臨危忘生,忠勇乃見,銜命奉事,功績早成。非但築城制外,誠足減戍安邊。若不褒進,何勸後徒。宜加酬賞,式慰匪躬。其從四位下田中朝臣多太麻呂,授正四位下。外從五位下道島宿禰三山,首建是謀,今美其功,特賜從五位上。外從五位下吉彌侯部真麻呂,狥國爭先,狄徒馴服,賜外正五位下。軍毅以上,及諸國軍士、蝦夷俘囚,臨事有效,應賜位者,鎮守將軍宜簡定等第奏聞。」多太麻呂上言:「兵士之設,機要是待。習戰輕生,奮勇爭先,如此而可用也。而比年諸國所發戍兵,在道逃亡。當國運糧鎮所,計稻三十六萬束,徒費官物,民庶困弊。前守百濟敬福罷他國戍兵,點當國之人。請依此例,點國申四千人,以減戍兵二千五百人。又此地祁寒,積雪難消。其輪調庸,初夏上道,季秋還鄉,梯山航海,艱辛備至,妨民產業,無過于此。望請調庸收置於國,十年一度,運輸京庫。」許之。又上言:「他國鎮兵見在戍者,三千餘人。其二千五百人,被符既罷。伏請所遺五百餘人,留守諸塞。被天平實字三年符,差浮浪一千人,配桃生柵戶。皆是情抱規避,萍漂蓬轉,將至城下,相繼逃亡。當今之計,募比國三丁已上戶二百,徙實城郭,永為邊防。待其安堵,稍省鎮兵。」太政官議奏曰:「夫懷土重遷,俗人常情。今徙無罪之民,配邊域之戍,則物情不愜,逃亡無己。若有願就二城之沃壤,求三農之利益者,不論當國、他國,任便安置。法外給復,令人樂遷,以為邊守。」奏可。入為宮內大輔。寶龜中,歷民部大輔,兼美濃守,改右大辨,兼出雲守。九年,卒。【續日本紀。】

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