中央研究院

行って来ました。


日本巫女史

第三章、巫女の用ゐし呪文と呪言

 古代の巫女が、呪術を行ふに際して用ゐたる物に、呪言と呪文との區別の有つた事は、極めて朧げながらも、看取する事が出來る樣である。私は此の標準を、呪文は巫女が神に對して用ゐし物、呪言は人に對した物として區別したいと思ふ。勿論、此區別は、國語を有してゐても、國字を有してゐ無かつた古代の分類法としては、全く無意味であつて、呪文と云ひ、呪言と云ふも、共に言語を以て現はされてゐるのであるから、廣義に見れば、二つの間に區別を立てる事は困難なのである。併しながら、巫女の有してゐた言語感情──獨り巫女ばかりで無く、當時の社會が一般に有してゐた言語感情から云ふと、一種の歌謠體を借りて、三・四句又は五・六句の辭を續け聯ねて言ふ物は呪文であつて、後世の祝詞は此れより生まれたと考へたい。此れに反して、一語か二語で獨立してゐる物は呪言であつて、後世の「呪(のろ)ひ」又は「詛(とご)ひ」等云ふ物は、是れに屬する物と考へられぬでも無い。
 以上は、呪文と呪言とを形式上から見た分類であるが、更に內容上から分類すると、概して呪文は善惡の兩方に用ゐらるるも、呪言は惡い方に多く用ゐらるる傾きを有してゐる。私は、不充分ながらも、斯うした態度で、巫女の用ゐた呪文と呪言との考覈を進めたいと思うてゐる。唯、實際問題として、困惑を感ずる事は、私の寡聞から、古代の徵證が男覡に多くして、巫女に尠いと云ふ點である。が、此れは我國の文獻なる物が、母權時代を迥かに過ぎた父權時代に製作された為に、巫女に薄くして覡男に厚いのは、何とも致し方の無い事と考へるのである。


大日本史

 紀廣純,大納言麻呂孫,左衛士督宇美子也。寶字中,奉使北陸道,問民瘼。尋敘從五位下,為太宰少貳。歷薩摩、筑後守。寶龜中,遷美濃介,進從五位上,改河內守。新羅使金三玄等來太宰府,廣純奉敕檢問之。陸奧蝦夷寇邊,廣純兼鎮守副將軍,討之。既而遷陸奧介,進正五位下,授勳五等。是時,蝦夷未平,會按察使大伴駿河麻呂卒,以廣純為陸奧守。未幾,兼按察使鎮守將軍。尋授從四位下勳四等。先是,廣純上言:「出羽志波村賊,蟻聚肆毒。出羽軍士,戰屢失利。」因以近江介佐伯久良麻呂為鎮守權副將軍,鎮出羽。十一年,就拜廣純參議。建言:「欲取水路擊賊,比年寒甚,河水凍合,不得通船。賊得其便,屢來侵擾。請先差兵三千,塞入寇之道。待三、四月雪消,雨水汎溢,直入賊地,築覺虌城守之。」敕曰:「山賊居近,伺隙來侵。宜造覺虌城,以遏膽澤之賊。」敕符未到,又奏言:「賊入長岡,官軍防戰,互有死傷。如不早討,侵掠不已。請三月中旬發兵進討,築城置戍。」敕曰:「狼子野心,不顧恩義,敢恃險阻,屢犯邊境。兵雖凶器,事不獲己。既發三千兵,以刈遺孽,以滅餘燼。凡軍機動靜,以便宜從事。」覺虌柵成,廣純自率俘軍,入伊治城。牡鹿郡大領道島大楯、上治部大領伊治砦麻呂等從焉。砦麻呂本夷俘之種,初有憾于廣純,然陽媚事之。廣純信用,大楯每凌侮砦麻呂,以夷俘遇焉,砦麻呂深銜之。至是煽動俘軍,自為內應,先殺大楯,遂圍廣純館,攻殺之。介大伴真綱潰圍一角而出,得達多賀城。城中兵器儲峙不可勝計,百姓競欲入保。而真綱及掾石川淨足,潛由後門遁。百姓無所恃,一時散走。數日賊至,毀府庫,恣掠資財。其所遺者,放火蕩盡。【續日本紀。】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm


■本日は銀行強盜なり
http://www.nagomiko.net/html/lg_n008.htm


■ネズミの脳みそを組み込んだロボットが完成
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1157379.html

万能文化かフロントミッション1か...