神戴山書紀

■神戴山書紀

  • 神戴山書紀 撰 / 大曉島命 漢譯 / 和仁估安聰
    • 神戴山書紀 自序
    • 神戴山書紀 卷第一 初訓東西四諦
    • 神戴山書紀 卷第二 天神世定酒法紋
    • 神戴山書紀 卷第三 一女三男降誕紋
    • 神戴山書紀 卷第四 豎扶桑拾貳后紋
    • 神戴山書紀 卷第五 天照太神春宮紋
    • 神戴山書紀 卷第六 神敕承高天原
    • 神戴山書紀 卷第七 神敕年中行事紋
    • 神戴山書紀     家敷座摩地挌祭紋
    • 神嶺山傳記     歲中行事紋
    • 神戴山書紀 散逸文

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sindaimonji/hotumatutae/mikasafumi.htm

ミカサフミ(漢訳表記されて、神載山書記・三笠山紀・神嶺山伝記等)
全64アヤ。9アヤ分のみ発見。五七調の長歌体になる哲学書
最古の写本は溥泉(ふせん)伝本で、『神嶺山伝記歳中行事紋(ミカサフミ・トシウチニナスコトノアヤ)』 宝暦15年(1764年)以前

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B2%E3%82%B7%E3%83%86%E6%96%87%E7%8C%AE


■補給物資

荒井さんの来台につれ幾つ買い物を頼んだのですが、間に合わなかった物としてやまむらはじめの作品の数々があります。
待ちきれず一刻でも早く入手したいと思って、ですが、アマゾンのようにEMSで送る度胸もなかった私ですが、
丁度在日中のCyesutaさんが協力して、代理ゲットして下さいました。
加えて、借りた物をやった事がありますが、いつも入手できなかった『久遠の絆』Original Desktop Accessories 2を無事落札しました。
誠にありがとうございます!


■Colin Wilson『Necronomicon続篇』序文節録

 グラントはロバート・テムブルを引用して、「魚の尾を持つ両棲種族が自分たちの文明の土台を据え……彼らはシリウス星系から来たと主張する」ドゴン族について語る。グラントが言うには、「言い換えれば、ヘカテー(魔女の女神)と蛙(両棲類)とシリウスと月と性衝動には、微妙な関係がある」のである。
 カリフォルニアのぺタルマで内なる光協会を主宰する現代の霊能者、ベティ・ベターズは、アトランティスに関する驚くべき小冊子を作り出し──エドガー・ケイシイの場合と同様に──光のトランス状態で得た情報を記しているが、その内容はマダム・ブラヴアッキイ、ルドルフ・シュタイナー、ケイシイがアトランティスについて記しだ事に概ね一致する。アトランティスに「全てがあった」のなら、どうして上手くいかなかったのか。この問い掛けに対する答は、「物質主義と性の誤用が最終的な破壊の絶頂をもたらし……人が性的に満足せず、乱交や家族の崩壊があり、新たなスリルを求める者がいた」ということである。
*この小冊子を教えてくれた事で、オーストラリアのワランダイテのヴィクターカザンに感謝する。
 実際には何がアトランティスを破壊したのかと尋ねられると、霊媒を通して喋る「実体」が答えて、「このエネルギーの誤用」であり、「人はエネルギーの理解と知識をたっぷりと得て……それは我々がエネルギーとして知っている物を超越していた」と告げた。勿論これはまさしくシュタイナーが述べている事である。
 ここで性的エネルギーの誤用というテーマを詳しく調べてみよう。現代人はテレヴィのコマーシャルやソフト・ポーノグラフに至るまで、性的刺激に取り巻かれるのに慣れているので、これが性の本質であると当然のように思っている。実際のところ、私たちの文明は、自然の繁殖本能と殆ど共通する物がない、熱に浮かされたような性衝動に支配されているのである。行動生物学者のロバート・アードリイは、「セックスは自然という世界では二次的なものである」と述べた。ジャングルでの生活は、食べ物を得て捕食者を交わさなければならない事に支配される。セックスは牝が発情期を迎えた時にのみ起こる。類人猿が動物園に収容されると、その生活は急にセックスに支配されるが、これはそれ以外の自然の衝動が全て遮られるからだ。
 進化の途上の何処かで、人間の性衝動は牝の体臭や体温に依存するのを止めてしまった。人間の女は一年中受動的になった。しかし犯罪や病を生み出す、人に溢れた町で暮すようになっても、セックスはある程度まで「二次的なもの」であり続けた。大半の者は今までにも増して、生きる為の闘いで頭が一杯だった。比較の上では、性に耽る事は不可欠では無くなった。セックスが重要性を高めていったのは、有閑階級の間であって、これは中世の末期に新しいロマンティックな地位が女に与えられた事に反映している。たとえば、ダンテやペトラルカがそうである。中世叙情詩人の草分けであるポアティエのウィリアム公は──ドン・キホーテがドゥルシネアを理想化したように「貴婦人」を理想化した──「世界一礼儀正しく、誰よりも女を惑わす、戦にあっては勇敢な騎士であり、愛と密通にあっては物惜しみしない男」として知られていた。言い換えれば、根っからの女たらしである。
 私はよく指摘するのだが、性犯罪は現代の現象である。一八世紀末に発行された『ニューギット監獄暦報』には、現代の意味に於ける性犯罪が全く存在しない──犯罪者は生きる事に追われていたのだ。性犯罪は一九世紀末に近づくにつれ、ポーノグラフィの出現の後で現れ始めた(それ以前に存在したポーノグラフィは、専ら教権反対の目的を持った物で、聖職者や修道女の不埒な振舞いを扱っていた)。一八八八年の切り裂きジャックの殺人が、現代の意味に於ける最初の「性犯罪」の一つだった。一世紀後、連続殺人犯──その基本的な動機は暴行──が、文明国家(あるいは少なくとも報道の発達した国家)の法執行機関の主要な問題の一つになった。
 どのようにしてこういう事になったのかは、正確には理解し難い。人生の大半を牢獄で過ごして一八一四年に亡くなったマルキ・ド・サドは、現代なら「頭の中のセックス」と呼ばれるようなもの、「禁断」という考えに基づく熱狂的なセックスを始めて表した。サドの初期の著作は近親相姦を強調する──父と娘、兄弟と姉妹である。ジョーはヴァーグナーが兄弟と姉妹の近親相姦に心を奪われている事に触れ、「誰がそんな事を欲するのか」と問い掛けた。しかしショーは現実主義者だった。サドは牢獄で白日夢に耽る事しかできないまま、セックスを主観的なあられもない幻想に成さしめた。そして単なる近親相姦や姦淫が疲弊した想像力を刺激する事が無くなると、ありとあらゆる残忍さに関わる奔放な幻想を作り出した。『ソドムの百二十日』は性的倒錯と拷問の一大目録てある。
ここで起こっているように思えるのは、人間が性的エネルギーを単なる動物の交尾に費やすのは残念だと発見した事である。鼠蹊部が性的エネルギーで疼く時、僅かばかりの「禁断の物」が、ある種の長く引き伸ばされた性的興奮を引き起こし、一時的な意識の変容に通じる。通常の状況下では、私たちは快い白日夢を一分以上も持続する事ができない──フットボールの賭けに勝つ事を想像するのが一例だ──が、これは想像力が余りにも弱いからである。しかしこの鼠蹊部の疼きに維持されると、想像ガが持続する白日夢を作り出し、オルガスムスによってのみ終わる。純粋な銅は軟らか過ぎて刃をつげられないが、少し錫を加える事で、青銅に変えて剣を打ちだせるように、代替現実を作り出す者に性的エネルギーが注ぎ込まれる事によって、想像力が俄かに活気づくのである。
マルキ・ド・サドの熱狂的な「代替現実」が、正しくイギリス、フランス、オランダにポーノグラフィ産業を作り出した。一八三○年代と四○年代のポーノグラフィは凡そサディスティックな物ではなかった。精精臀を叩く程度の物だった──が、幻想は全てタブーを破る事に関わっていた。男性教師が女子生徒を誘惑し、女性教師が男子生徒に自慰を教え。執事が主人の十歳の娘の処女を奪い、人妻が列車で強姦されると云った具合だ。これらは全てサドの「ジュリニット』に於ける女子修道院長の伝統に従っており、女子修道院長は可愛い修道女にレズビアンのやり方を手解きした。過熱した蒸気を例えにすれば、ヴィクトーリア時代の人びとは過熱したセックスを作り出したと言っても良いだろう。そしてこれが私達の人生の大きな部分に成っているセックスなので、私達はそれを正常だと考える。グラントに拠れば、この類のセックスがアトランティスの最終段階を特徴づけるのである。
 ここで起こっているのは、生物学的に言って、アブノーマルな物である。性的エネルギーが健康な男に蓄積されると、僅か数分の性交によって解放する事が出来る。これは本質的に「正常なセックス」である──言い換えれば、動物のセックスだ。牡の動物──例えば牡牛か牡羊──が性的刺激を受ける状態にあると、発情期に達した牝の匂いによって、牝を貫いて精子を注ぎたいという強烈な衝動が引き起こされる。しかし刺し貫く事は本質的に凌辱であり。性行為の生物学的からくりは凌辱に依存しているようだ。これを端的に示す事実として、牡牛は何頭もの牝牛と次つぎに交尾するが、既に交尾しだ牝牛には全く無関心である。交尾した牝を再び近づげても、無視してしまう。牡牛はその牝牛を「我が物にして」、凌辱したいという欲望を満だしたのだ。動物の性衝動が純粋に発情期の牝の匂いに依存するなら、牡牛は既に交尾した牝牛とも再び交尾するだろう。興味のない事は、未だ「凌辱されていない」か所有されていない動物だげに、性衝動が向けられる事を示している。
 文明は私達人間全員を動物園の猿の地位に置いている。男の場合、性衝動は恨本的に「所有されていない」女を凌辱したいという欲望である。だからこそ、一九世紀にボーノグラフィが発達するに連れ娼婦や下女が扱われなくなった。娼婦や下女では挑戦にならない──数シリングで物に出来る。ポーノグラフィは「凌辱されていないもの」に対する欲望に依存する──女子生徒、女性教師、修道女だ。「禁断の」女なら、誰でもいい(同じ理由から、子供が強姦される比率が一九世紀に高くなった。)
 しかしこの「過熱した」性欲は、単純な誘惑の行為は勿論、強姦によってさえも満やされる事は無かった。そこまでに至った幻想が長ながと続いた複雑なものなので、可能てあるなら、性行為そのものがペニスの挿入とオルガスムスを超える物に関わらなければならなかったのてある。サドの『ウジェニ・ド・フランヴァル』は十四歳の誕生日に娘を犯す父親の話である。その後、父親は娘の処女を奪い、処女のような装いをさせ、その後「互いに酔い痴れて数日を過ごし……フランヴァルは娘に愛の神秘の全てを教え、娘の為に変の小道や横道の全てを辿った」のである。しかしどれ程の小道や横道があるのか。相互自慰、通常の性交、アナル・セックス、オーラル・セックス以外には、他に何があるのか考え難い。兎も角セックスは性器に於けるある種のエネルギーの蓄積に依存する。これが解放されるまで、性衝動は「禁断の」感覚に支配されるが、オルガスムスの後では破裂した風船のように消え、正常さの感覚が回復される。そして愛し合うカップルにとっては、正常さは性交以外の多くの事に関わっている。食べる事、飲む事、家事をする事、生計を得る事、気晴らしや旅を一緒にする事、子供を育てる事である。「性の熱狂」は、例え極めて重要な物ではあっても、結婚した夫婦の関係全体に於いては極めて小さな部分でしかない。
 私達ほ誰しも、幸福な関係に必要な特性が─「情事」さえもがそうなのだが──「性の饗宴」の為に必要な特注と殆ど共通する物が無い事を知っている。男は特定の女を支配したいという欲望を募らせながらも、その女といつも一緒に居るのが堪え難いのを知る事になるかもしれない。事実、性の欲望を作り出す要素は、結婚の現実と共通する物が殆どない事が多いようだ。人はそれぞれ自分なりの「性の解放」を持っている。特定の男は不完全な女──足の不自由な女、斜視の女、吃音女──に惹かれるし、黒ずくめの女や、ハイ・ヒールを履いた女や、病的な顔色の女に惹かれる男も居る。女の場合は、唇が薄く、耳が大きな、長身で骨ばった男や、唇が厚く、耳の平べったい、小柄で太った男に、身を任せたい衝動に駆られるかもしれない。性欲を刺激する特性は、殆ど滑稽な程千差万別であるようだ。
 こうした事の全てが、「性の幻想」という見出しの元で要約できる。言うなれば、長期に渡る現実には殆ど関係が無さそうな性の一部なのだ。その一例が、黒いストッキングを履いた女子生徒に密かな欲望を抱く男かもしれない。この男は、例え黒のストッキングを履いた女子生徒を誘惑しても、長期に渡る関係が無い事を知っているし、ストッキソグを脱いだ裸体を見た途端、女子生徒に興味が無くなるかもしれないことも知っている。同じように、サドのブラソヴァルは実際に娘と結婚しても楽しめないのは明らかである。娘と結婚すれば、娘は唯の妻に成ってしまい、「禁断のもの」の感覚を満たす為には、何処かに目を向げなければ成らなくなる。性的関係という物は、単に社会のタブーを破るという感覚に依存するのだ。
 簡単にいえば、動物の性衝動の土台でもあるこの「禁断のもの」は、長期に渡る関係には殆ど関係がないか、全く関係がない。幻影であり、奇術のトリックのような物であり、その目的は二人の人間を自然の目的に叶うだけ一緒にさせる事なのだ(この目的が自分を父親及び稼ぎ手にさせる事だと知れば、大抵の男は綺麗な女を見て逃げ出すだるう)しかし幻想は私達の文化で弥増しに重要な役割を果たすように成っている。テレヴィにコマーシャルを出す人びとは、スリップ姿の若い女をコマーシーャルに出して、今にも脱こうとする仕草をさせるだけで、忽ち男の視聴者の注意を捉えられる事を知っている。フェティシズムと呼ばれる性的異常の症例にも、「性の幻想」がはっきり現れているのを見い出せる。理想とする物の連想が性的感情を対象に移すのだ。足の不自由な女に性的に惹かれる男は、松葉杖を見ただけで興奮する。
 はっきりしているのは、「過熱したセックス」が文明の比較的洗練された段階で発達する事である。余暇から生じるのだ。歴史上有名な性倒錯者……カリグラ、ジル・ド・レ、串刺しヴラド… ば余暇と権力を備えた男たちだった。グラントが力説するように、アトランティスの文明が「超過熱したセックス」の形態(この場合は死体性愛)を発達させたのなら、それは必然的に、アトランティスが「左脳」の文明では無くなった、かなり末期の段階であったに違いない。
こう言った事の全てから、ラヴクラフトは恐怖小説の創造者以上の存在で、その作品はクロウリイの「魔術」に密接に結びついていると、そうグラントが確信している理由が判る。アレイスター・クロウリイは『魔術師の経歴』を一八九八年に二十三歳で黄金の暁教団の一員として始めた。しかしシアドーァ・ロィスと言う人物がクロウリイの元に訪れ、OTO──オールドー・テムプリー・オリエンティス(東方騎士団) ──と言う結社の一員である事を告げて、クロウリイが自分達の秘密を暴露している事を非難したのは、一九一二年の事である。驚いたクロウリイはどういう事かと尋ね、ロィスはOTOの「高度な秘密」には性魔術に関わる物も有ると説明した。クロウリイにとって、これは啓示のような物だっだ。プリマス同胞教会に属する富裕社家で育ったクロウリイは、セックスを邪悪な物、救済の妨げになる物として教え込まれていた。劇場を訪れても、クロウリイは観客を見回して、「この人たちは此処に居るのがばれるのを怖がってるんじゃないか」と思った程だったという。クロウリイは十代の始めに、母のべッドで下女を物にするのに成功し、それからは尻ごみしなくなった。子供の頃の躾は、セックスから邪悪な物だという魅力的な雰囲気が失われない事を意味し、クロウリイはできる限り数多くセックスに耽った。とりわけオーラル・セックスに夢中になり(噛まれたり、男色行為をする事もそうだが)、これを高齢になるまでやり続けた。
 しかし「性魔術」は明らかに単なる性の耽溺を超える物だった。性的エネルギーをコントロールする事により、宇宙との合一に達しようとする試みだった──ヒンドゥ教の一派ではタントラとして知られている。こうした事の全てが、クロウリイには啓示のように思えた ──二つの中心的な強迫観念、セックスと魔術を統一する物だった。性魔術に対するこの関心は、グラントを含むクロウリイの弟子にも引き継がれている。