女神の嫉妬

■サド侯爵夫人・朱雀家の滅亡

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

その『サド侯爵夫人』は言うまでも無く、戦後最高の戯曲と言われ、文句なしのできでした。
澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』をよりながら、サド侯爵そのものを舞台に上げずにそれを纏わる女性らによって、
ルネが妻として、アンヌは天真爛漫でゆとりの少女として、モントルイユ夫人は世間体として、
サン・フォン夫人は肉体的悪徳として、シミアーヌ夫人は神的美徳として、シャロットは第三身分者として、
それぞれの視点により、ソレソレのサド侯爵の影を書く絡み合う、最後にルネによりより世在らぬ物こと、倒錯なる光の騎士への転生を遂行した。*1
澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』にかかれた、サド侯爵という無垢性と怪物性を併持する稀人を見事に演出する三島は素直に脱帽せずに居られません。
まして、三島死後、フランス劇作家によってフランス語に翻訳してフランスで上演する御業まで達するこの作品は、快挙と言えずに何がいえますか?


サド侯爵について、もちろんサディズムから窺えますが、私が彼に対する認識は、遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』が始まりでしょう。
マリー・アントワネットは日本においでのイメージが意外とそんなに悪くないですが、フランスでは大いに嫌われたものでした。
もし可能であれば、遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』がフランスでヒットできればいいと思います。
フランス人が、より公正的視点でマリー・アントワネットを再評価できるかもしれませんから。


って、『王妃マリー・アントワネット』はフランス大革命の前後を述べる作品であり、
そしてサド侯爵がこういう時代に生まれ、道徳の倒錯及び快楽の実験を行って、それは大したものではありませんか。
こういう時代でなければ、サド侯爵が単なる変人でおわり、忘れ去るのも可笑しくないと思います。
ですが、まるでこの時代に生まれる必要性が在るが如く、その存在意味が強調され、時代こそのサド侯爵であり、サド侯爵こその時代でもあります。
転型正義(Transitional Justice)という時代の渦の真ん中に、正しいと思われるものは悪にされ、悪と思われるものは善とされ、
何か昔も今も変わらぬものは一体何なのかを探し出すのは、かなりの時間が要るとします。
そんな迷走の時代、倫理の倒錯を予見するサド侯爵は、まさしく時代に間に合いながら只ならぬ曲者でしょう。


「アルフォンスは私だったのです。」と「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありません」、
その二つのきまり文句がそれぞれ、サド侯爵夫人の貞淑と離縁を物語り、
前者は獄中の夫に対する情感で、後者は倒錯なる光の騎士を夫にする、その老衰で凡俗の肉身を断絶するところでしょう。
或いは、現実のサドを否定し殺し、作り上げた愛すべからざる光の騎士を高めようとしています。
まるで、赤穂事件においで法親王の言う如くだと思います。

亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる

ルネのその拒絶も、情けとなります。




さて、『朱雀家の滅亡』については、あらゆる洗練を極めて、ですが総的いいますと、「サド侯爵夫人」の格が上にあるかもしれません。
エウリピデスヘラクレス』がモチーフの原典のようですが、作者自らそれを明言しなければ誰も気付かずほど完成度が高いと言えます。
ヒロインの松永璃津子が最初では受身の姿をしていましたが、朱雀経広が死地へ赴かんと分かる途端、狂気の花嫁になってしまいます。

お祈りをしていたことはいつも一つでした。広様のご無事だけを。それには願掛けをしなければなりませんから、一番辛い願をかけていました。広様が無事で帰していただけたら、広様のお体を護り抜いて頂けたら、私はきっと結婚を諦めますって。......お社の若い美しい女神は、広様と結婚したがっておいでなのですもの。そういう願なら快くお受けになり、広様の身を護って下さると思いましたの。
......でも、今日になって良く分かりました。私の日参も私の願かけも無駄事だったと。何故って、そうお祈りすることは、たとえ辛い長いではあっても、結局、広様の御無事と私の無事を双つながら祈ることになるのですもの。朱雀家の弁天様は当主と結婚しない女を、お取り殺しになることはないのですもの。そういう女は代々生き永らえて、朱雀家の子孫を伝えて来たのですもの。
今日判りました。広様は危険な戦場へいらっしゃる。その広様を救うためには、女神は犠牲をこそ望んでいらっしゃるだって。私は今までの願を改め、今夜のうちに正式の花嫁になり、是非とも広様の身代りに立たなければ成らないのだって。そうしなければ、朱雀家の血筋は絶え、そうすれば何時か無事にお帰りになった広様が、妻とは呼ばない別の女の人から、後継をお作りになればいいのだって。
丁度おじさまがなさったように。......そうですわ、女神は男は生かしおおきになるでしょう。ご自身の大切な良人ですもの。私は若くて忽ち死ぬ朱雀家の花嫁、春の日のように夕風に紛れて終る短い一生、蜉蝣のように衰えてゆく若い花嫁になればいいのだわ。丁度おじさまの、あの美しかった奥様のように。それだけが広様のお命を救う道なのですわ。

魅せられるわ!璃津子!これで第二幕により第一部が終了しました。これから璃津子の出番を待ちかねる私に意地悪にも、第三幕から出番が有りませんでした。
これから経広が死に、経隆とおれいのと、生気のない余生になってしまいました。
ここまで終ると思ったら、長い間退場を為さった璃津子が、経広を失って恨みにより、亡くなった奥様の着物を着て、琵琶曲「楊真操」を弾いて、
朱雀家の女神・都久夫須麻媛命こと弁天の後継として再び舞台の表に立ち、経広を死なせた経隆を殺そうとします。その神なる女ぶりは、私得過ぎます。

若くて死んだ良人を持って、朱雀家の花嫁は不死になりました。今こそ長い嫉妬は払われ、女神の世が来たのですわ。女神は永い永い間嫉妬に苛まれ、次次と恋仇殺してゆくことは無駄だと悟って、自分の嫉妬に自分で疲れ果て、とうとう恋している当の相手を殺してしまって、それで心の安らぎを得たのです。それほどの悲しみを潜り抜けてから、もう決して嫉妬しない、晴れやかな女神の世が始めてきました。昔の女神を慕っている貴方を、新しい女神は、新しい朱雀家の花嫁は、滅ぼそう現れます。お怖くはありません?

貴方はご自分の幻で、我が子も、妻も、我が子の許婚も、等し並に包んでおしまいになった。蘇った力で、朱雀家の花嫁が、今貴方を撃ちますよ。かつて貴方を愛していた嫉妬の女神が、今度は復讎の剣を振り翳しています。見えない剣が貴方の頭上に迫っています。

貴方の空ろな心の洞穴が、人々を次第に飲み込み、何も為さらぬ事をを情熱に見せかけ、この上もない冷たさを誠と呼ばせ、貴方はただ、夜を昼に、昼を夜に繋いで生きておいでになった。そして朱雀家三十七代を、御自分の一身に滞らせ、人の優しい感情の流れを堰き止めておしまいになった。みんな貴方のお陰で滅びた。おじさま一人が滅びずにいらっしゃるのは何故?

私はもう決して死なない朱雀家の花嫁です。花嫁が女神になり、女神が花嫁になりましたから。悲しみの滝を浴びて、蘇った新しい女神ですから。でもおじさまは、......おじさまは、朱雀家の最後の男でいらっしゃる。貴方が滅びれば、これで朱雀家は永遠に滅びるのです。後は不死の花嫁が、水の辺で、琵琶の強い艶やかな音色を響かせていればよいのです。私はお進めに参りました。広様の花嫁として、それから、貴方御自身の蘇った花嫁として、貴方にお進めに参りました。一番先に滅びるべきである貴方が、未だそうして生き永らえていらっしゃるのは、何故?

そしてその璃津子が死を迫る質問に対して、経隆の答えは絶妙なるものでした。

どして私が滅びることができる?夙の昔に滅んでいる私が!

その鬼気を迫る幕きり科白が、大いに気に入ります。




葉隠入門

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

読了。
死狂ひなど、一見烈しく単純なエネルギー謳歌に見えますが、所々矛盾の事も書いて、
言わば物事は絶対ではなく、「賢明」より「知恵」を進めています。
死を全ての終点に置き、「幻しい未来」よりも現在。『文化防衛論』にて、三島が「未来を信じない」というものの、
三島・葉隠にはない未来とは「幻しい未来」であって「確実の未来」ではありません。
刻一刻全力を尽くすべき、今でも死ぬと思って、全力に今を生きる、その刻一刻の片断の重なるが、「確実の未来」になります。
反革命宣言』などにも書かれた、見えない美しい未来を口実に、今をぶち壊すのが赦さんとは、こういうことでしょうね。

*1:その代り、生身かつ年老のサド侯爵本人は拒絶され、『癩王のテラス』にある肉体が如く崩壊しました。