野馬臺詩

■野馬臺詩

水 丹 腸 牛 龍 白 昌 孫 填 谷 終 始

流 盡 鼠 食 游 失 微 子 田 孫 臣 定

天 後 障テ 食 窘 水 中 動 魚 走 君 壤

命 在 代 人 急 寄 干 戈 膾 生 周 天

公 三 鶏 黄 城 胡 後 葛 翔 羽 枝 本

百 王 流 赤 土 空 東 百 世 祭 祖 宗

雄 英 畢 與 茫 為 海 國 代 成 興 初

星 稱 竭 丘 丘 遂 姫 氏 天 終 治 功

流 犬 猿 青 中 國 司 右 工 事 法 元

飛 野 外 鐘 鼓 喧 為 輔 翼 衡 生 建


東海姫氏國 百世代天工 右司為輔翼 衡主建元功
初興治法事 終成祭祖宗 本枝周天壤 君臣定始終
谷填田孫走 魚膾生羽翔 葛後干戈動 中微子孫昌
白龍游失水 窘急寄胡城 黄鶏代人食 障テ鼠喰牛腸
丹水流盡後 天命在三公 百王流畢竭 猿犬稱英雄
星流鳥野外 鐘鼓國中喧 青丘與赤土 茫茫遂為空


 林子曰:此詩未知何人妄作也。俗傳稱,粱僧寶誌與一千八人化女遇,聞話日本始終,即作十二韻,是日本真讖文也。八千人女,分是「倭」字也。號野馬臺者,野馬者陽焰也,臺者謂國也。言:「倭國,人道輕薄,雖有若無,猶陽焰起春臺。」流傳至唐代,及吉備公入唐,唐人為試其智,出此詩,使公讀之。其書式不平直,而交錯迴旋書之,如蘇若蘭「錦字詩」。公不能讀之,默禱本國佛神。忽有蜘蛛落其紙上,漸步曳絲,遂認其跡讀之,不謬一字。唐人稱美之。
 好事者註此詩謂:「東海姬氏國者,日本為后稷之後也。右司者,謂天兒屋根命、天太玉命,為皇孫輔翼也。衡主者,謂八耳太子,為衡山思大和尚化身也。谷填、魚膾者,謂大友皇子亂也。葛後二句者,謂惠美押勝作亂,藤氏中微,至忠仁公再興,子孫繁昌也。白龍者,謂孝謙女主,以庚辰歲生而淫亂,國祚殆絕也。黄鶏者,謂平將門,以已酉歲生,而僭王號也。障テ鼠者,謂平清盛以壬子歲生,而侮王室也。天命在三公者,謂源償ワ朝領四海,為三代將軍也。猿犬稱英雄者,謂有申、戌之歲人,威加四海也。其後兵革不正,國中為空也。」或曰:「山名宗全細川勝元,以申、戍之歲生,而應仁大亂,洛中焦土者是也。」
 今按,寶誌何以豫知殊域千歲之後哉?決是中葉以後,好事僅知字者,倣叡山座主『未來記』、『天王寺未來記』等妄說而作也。野馬臺,倭訓也麻登,即是大和也。作此注者不知此倭訓,漫引陽焰解之,不堪捧腹。且唯言右司,豈可兼左右哉。八耳王生在,思大未死之前。師鍊『釋書』,費許多文字解之。迷其妄說者,其才量淺陋可知焉。谷填、魚膾,於大友事不相當。窘急寄胡城,於孝謙事不分明。則作者瞽於國史。況又償ワ朝可言卿,不可言公。償ワ家被害,實朝遭弒,天命果何在哉?妄誕之甚,事實之暗,雖不足論之,聊辨以解兒童之惑。
 俗傳又稱,先是阿倍仲麻呂入唐,武帝殺之。其後吉備入唐,仲麻呂為靈鬼,屢以唐人審謀告吉備公,故公得免死。及示「野馬臺詩」,鬼來告曰:「公若不讀之,則必被殺。雖然吾,亦不能救公。」遙祈長谷寺觀音,得讀之。仲麻呂入唐,在玄宗時。宜曰明皇,不可曰武帝。且仲麻呂留學數十年,以壽終于唐。此等謬說,浮屠者不知倭漢故事,妄吐孟浪之言,誣吉備公,誇說佛力,以誤世人。僅耳讀書之眼者,一見可知其邪說。則費多言亦無益。今載此詩者,唯備一首之數而巳。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/hc11/hc1109.htm#438

 野馬臺って、邪馬臺(ヤマタイ)国じゃないか、林鵞峰がそんなことも知らなければ流石『本朝一人一首』も見限りと思ったのですが、「邪馬は陽炎なり」というのは野馬臺詩序にある引用で、その後、林鵞峰が激しい批判を行いました。ところで、邪馬臺をヤマタイと読むではなく、ヤマトと読むのはいいかもしれません。普通、山跡にしろ山門にしろ、あの頃の日本には、国名として地名としてヤマトがあってもヤマタイが無かったはずだと思います。タイはトの誤読か、(しかも言われてみれば、今の北京語はともかく、古代の官語・方言でなら臺をトオに読めなくもありません。)別の意味を持つかもしれません。なお、星野之宣の「ヤマタイカ」では、「邪馬大火(ヤマタイカ)祭り」や、「邪馬大国」という説に成ってます。それはそれで大変面白いです。
 あとはですね、阿倍仲麻呂吉備真備の話、「此等謬說,浮屠者不知倭漢故事,妄吐孟浪之言,誣吉備公,誇說佛力,以誤世人。僅耳讀書之眼者,一見可知其邪說。」との批判が火力猛烈でGJGJです。ただ今、修羅場で更新緩慢なのですが、『扶桑略記』のテキストも作っています。『霊異記』、仏教説話、なお怪しい話を好んで盛り入りする(坂本太郎説。『六国史』(日本歴史叢書27) 吉川弘文館)『扶桑略記』が、『霊異記』テキストを作ったころの如く読んでいてフラストレーションが溜まります......




■パーレー万国史
近代日本の帝国主義化、脱亜入欧論、また漢字廃止のための新字作りの理由の一つとして、『パーレー万国史(Peter Parley's Universal History)』があげられます。本当はアメリカの子供向け世界史ですが、中学校二年生程度のやさしい英語であるため、多く明治前半の青少年は英語の勉強と世界史の勉強をかねる方便として好んで読んでいます。
別に子供向けかどうかはどういうことでもありませんが、問題なのは、この『パーレー万国史*1』かなりアメリカ自我中心で書かれたことです。たとえば、世の中の人を、四つのグレードに分けたことです。

  • 野蠻人(savager):泥と木で建てた家に住み、弓矢で狩をして生活している。インデアン、アフリカ黒人の一部、アジアの一部に該当する。
  • 未開人(barbarians):一部分石と泥を使った家に住む。殆ど書物を持たず、教会も集会所もなく、偶像を崇拝している。残忍な習俗を持つ。アフリカ黒人、アジアに該当する。
  • 半文明人:住民はまあまあの家に住み、金持ちは豪壮な宮殿に住む。人は多く精巧な技術を持つが、学校は貧弱で、ごく一部の者が読み書きを教えられる。中国人、インド人、他のアジアの一部や欧州・アメリカの一部に該当する。
  • 最高文明人:良い家に住み、良い家具、多くの書物、良い学校、教会、集会所...を持つ。欧州の多くやアメリカ合衆国に該当する。

と、文明・開化の定義を己こそ見本だが如く書かれていました。ここまで日本は文明・進歩の観念がなかったのですが、急に自分は最高文明人ではなかった、遅れている、早く何とかしないと、と焦っていました。本当は、別にキリスト教を信じないや殖民地を持てないなら野蠻人だと言うわけでは有りませんが、そこに気づく余裕が無かったらしい。挙句、脱亜入欧論から始め西洋の猿真似を急いで、得る物もあれば失う物もまた大きい...(参考:『漢字と日本人』P159)


喰霊・零5(台湾版)
案の定、字幕はいくつの誤訳がありますが、概ね見過ごせる所だと思います。
ただ、二つだけ惜しい誤訳があります。

  • 一つは、黄泉の傷部に陰部を漏れたところ。退魔師などの家を継げることが大事な家系では、跡継ぎを産めるのは大事な勤めでも有るゆえ、婚約破棄へと直結したわけです。
  • 一つは、一騎の「たまに行かないか」を”飲み”に誤解したところ。日本語では暗黙な了解で、主語や目的を略した所が良く見られますが、他の言葉にはそれではいけない事も有ります。故に、字幕では「たまに行かないか、飲みに」に成ったわけですが、本当は「ダーツに」でした。喰霊・零における、「ダーツ」も些か重要なキーワードになります。紀之が黄泉と神楽の時間を大事にしたから、一騎とダーツにいくとの言い訳をして黄泉の誘いを遠慮したのです。黄泉の理性はその配慮は知らない訳でもありませんが、感性的はやっぱり寂しい気持ちを否めないはずです。黄泉の考えはどうであれ、紀之にしては、今になって何で最初から黄泉との時間を大事としないのか、と自責している最中で、一騎が空気を読めずに「たまに行かないか」は勿論却下されました。そして、一騎が殺されたのも、そこに繋げてます。


■Frohe Weihnachten !
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/meisi/occult/dies_irae/glossary/ldo/06m3.htm

*1:ちなみに、パーレーは作者ではなく、子供に歴史を教えでくれる書中のキャラでした。