渡辺静『この彼女はフィクションです』

渡辺静この彼女はフィクションです
この彼女はフィクションです第一話、読了。

 渡辺静の新連載「この彼女はフィクションです。」が、本日2月9日に発売された週刊少年マガジン11号(講談社)よりスタートした。
この彼女はフィクションです。」の主人公は、10年間続けている秘密の趣味を持つ15歳の葉村裕里。高校に入学し天才文学少女に恋をした裕里は、その趣味を捨て去る決意をするのだが……。「CHIMES」で知られる渡辺が新たに紡ぐ、ジェットコースターラブストーリーに期待しよう。

コミックナタリー - 渡辺静が週マガで新連載「この彼女はフィクションです。

http://natalie.mu/comic/news/44709

この作品読むようとした原因は二つあります。

  • まず、フィクションとリアルの間の対立というテーマに興味があります。
  • あと、水星さんのBLOGの情報から見ると、主人公が黒髪ロンガーらしいってことです。

でも、正直、ちょっと期待はずれかも知れませんね...(汗)
フィクションに対する真剣さが足りませんね、主人公も物語の語り方も。


主人公、葉村裕里は、5歳から15歳までの十年間、唯一人のキャラクター・ミチル*1を描き、その設定を作り、物語を編み出したと言います。それを一番分かりやすく表現出来るシーンは、恐らく自室の部屋だと思います。これについて、水星さんの記事を参照してください。

部屋の壁には園児がクレヨンで描いたような絵からパッと見て上手い絵までさまざま広がっていて、彼の十年の軌跡を把握できるとともに、十年間ずっと黒髪ロング萌えでぶれていないところも一目瞭然ですばらしい。しかも文芸部では「絵も文章も書けない」と言われており、またメモにも「絵は上手くなったが今でもミチルしか描けない」とあるように、彼の画力はミチルにのみ特化しているのです。

mercury-c・水星さん家

http://d.hatena.ne.jp/mercury-c/20110209/1297249773

ご覧の通り、部屋が「ミチル」の絵が埋み尽しています。
これまでくると、もはや狂気の域、悟諦の境に至ったのかもしれません。
何もかも捨てて、唯一つの理想を求めた求道者の姿がそこにある、変質者とは紙一重の高みに来たのだと思います。


ですが、実際に作品を読んでみると、好きな人が出来たからで、*2その十年渡って思いの結晶たるを捨てようとしています。しかも、先輩の久住風子を好きになって二個月間、ミチルの創作を止まったらしい。
まさか十年間の思いはその程度だったのか!と叱りたくなります。
それなら「現実(リアル)なんて、クソゲーだ!」と言い張った『神のみぞ知るセカイ』の桂馬や、「オレは生きた女にキョーミね──から」と言った『さんかれあ』の千紘の方が可愛く思えます。 *3


自分が創作った存在を好きになったというモチーフは古くからあり、ギリシア神話にはピュグマリオンという彫刻師が自分が彫った処女像・ガラテアに恋をして、食事させて贈り物をしてて着せ替えをしたといい、つまりフィクションをフィクション以上のものと捉え、それを人間として愛したと言う話です。


 現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。



関連項目:ピグマリオン効果ピグマリオンコンプレックス
関連作品:「未来のイヴ」ピグマリオン (戯曲)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3

神話においでも、創作においでも、また現実においでも、自分の創作物に恋をした、と言うのは不可能な事ではありません。
それは、創作が真剣であるほど、真剣なだけに己の愛情をを注ぎ込むからであります。
芸術作品は作家の結晶であり表現形である、時に命で引換えても惜しまないと言って構いません。
例えば『癩王のテラス』には以下の表現が伺えます。

肉体の崩壊と共に、大伽藍が完成してゆくと云ふ、
その恐ろしい対照が、恰も自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩のやうに思はれた。

三島由紀夫癩王のテラス

言い換えれば、それは自己愛でありながら他者愛でもあります。自分が源とする他者、それは創作物であるではありませんか。
事実、「自己愛のない他者愛は偽善だ」と断言する説も有ります。
己が作った創作物を愛する事は、恰も「自己愛が他者愛のもと」との実例ではありませんか。


裕里は十年間、ミチルだけを描く、創作し続けると言います。他の物は書けない、書くつもりもない、現在15歳の彼においで、人生の三分の二は、ミチルと共に歩いてきたのと言って間違ってません。その十年からなる思いは、並大抵なものではないと思われます。


なのに、簡単に「『ミチル』を...棄てよう」と思いついた裕里が格好悪かったのです。それに加えて、十年渡って唯一人のキャラを作ってきた割に、設定ノートで読んだミチルの設定が薄っぺらというかご都合主義のように見えます。

  • 大人しい性格...かと思いきや、一度決めた事は曲げない芯の強さも併せ持ち
  • 一途で、とびっきり純粋。
  • 現代の日本女性が忘れている、可憐さ、清楚さをも兼ね備えており、現実世界の女子達とは全然違う!
  • 断固黒髪ロング!!サラサラ腰くらいまで長さがある。

などは未だいいですが...

  • おっぱいかなり大きい(笑)
  • 裕里の事が大好き!
  • 下着は白ベース、派手なものはつけない。男のロマン!!
  • 無駄毛なんでて生えてない
  • もちろん処女

などなど、浅はかですね...もはや痛いとしか言いようがありません*4。別に「処女厨だから...」とは言ってません、でも一々強調したらやっぱりキモイですよ。


そして、ストーリーとして齟齬を感じたのは、安易に実体化させて*5、フィクションを現実に持ち込もうとした語り手の姿勢かもしれません。私に言わせると、フィクションが崇高なのは越えないからであります。もし、出来ればフィクションをフィクションのまま、現実と対決してほしいです。その対極の立ち位置によってこそ、フィクションの真価を遺憾なく発揮できると信じます。ですから、第一話で簡単にリアルで顕出したら台無しのではないかとも思います。


現実とフィクションの差異はどこにあるのか?フィクションはリアルでは至れぬ完璧かつ究極なる理想、と言った方が分かりやすいかもしれません。つまり、多かれ少なかれ、現実に生きる事は、つまり欠陷と妥協することです。逆にフィクションで生きる事は、妥協せず至高なる高みを目指することです。


フィクションに恋する事は、『葉隠聞書』の「忍恋」の一つの実行だと思います。

 この前、寄り合ひ申す衆に咄し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に:


  恋死なん 後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは


 これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。

山本常朝『葉隠聞書』

山本常朝の説によれば、忍び恋こそ恋の至極、一旦会ったら恋の程度が低くなり、死ぬまで忍んで思い死んだら、恋の本意を得る事が出来ると言います。ここの至極は、愛する人も、愛される人にも言えることです。先ず愛される人*6から話しましょう。
時に、「死んだ恋敵は無敵だ、人は死んだ人を美化し続ける物だから。」という話が物語で読めます。それは何ででしょうか?死んだ人は生きている人との間に、距離が置く故、美点を維持しながら、欠点を忘れ去れて行く頃向があります。その中心にある原因は、現実だった物がフィクション化し始めているからだと思います。会えないから、永遠に崇高に居られる、とも思います。そこに死人じゃなくても、例え身近いな人であっても、もし忍び恋をし続ければ同じく相手をフィクション化する働きがあります。ちなみに、ここで重要なのは、過分な期待が行けないではなく、期待を他者に押し付けない事です。*7
そして愛する方はどうでしょうか?忍び恋のままでは、相手をフィクション化して、現実では有り得ないほどの高みに置く事は、己も精進して、幻想で膨れ上がって巨人の身丈を獲得した触れぬはずの相手に恥じない存在に近づけようと努力することにあります。永遠に追いつけないからこそ、最大速力で頑張るしかありません。相手が本当はどんな人であっても、会わなければ別にどうでもいい、己と己の心の中のイメージと共に、完璧の高みへ全力疾走のみを考えればいい。これは、恋のたけを高める方法の一つです。
そして、劣情の問題もあります。今までは恋のたけを高めようと論じていましたのですが、現実は妥協の産物だから、もっと切身な事は恋のたけを低めない事に有ります。会えないからこそ、その恋が情神的、プラトニック的居られます。もし会ったら、物質的なものに流される恐れもあります。簡単に言えば体を目当てと言うのはその一例かもしれません。会えないならば、官能と関係なくより純粋な関係を持ちます。さらに相手を貶むことについて、コリン・ウィルソンが『ネクロノミコン続篇』の序文で、世の中のポルノものの趣向をあげて、媾合という事は、女性を凌辱する側面があるといい、動物*8の例を挙げて、動物性として、オスがメスを苛めたいものだと指摘しています。ただし、「雄ヤギが一旦、雌ヤギに”欲望”を注ぎ込んだら、俄かにその雌ヤギに興味を失います。」といった所で純潔を汚したい動物性をあげますが、私から見れば、単なる効率的遺伝子を広く撒きたいのでは、という現実な考えもあります。その説にやや疑問を持ってますが、オスがメスを苛めたい、破壊したいという説は、心理学的ありだそうです。確かに、『羊のうた』でも、水無瀬先生が八重樫に対する一砂の吸血衝動をこう捉えていました。相手をそういうものにしたくないから、忍び恋を貫徹すべき、という見方も、山本常朝の考えに有るかもしれません。
フィクションに恋をしたとはどういうことですか、それは、次元の壁があるだからこそ、消して会えることなく、そして絶対に忍び恋を通しずつ「恋死なむ」へ至る道ではないかと思います。寂しいはあるでしょうけど、どこまで妥協せずに歩けるのは、人それぞれでしょう。押井守は、『凡人として生きるということ』においで、「童貞のまま30歳を越えると魔法使いになる」との伝説にたいて、「彼らは理想に生きる、それでも現実を知り。30歳はひとつの限界かもしれません。彼らも、30歳にもなると、現実に妥協せずに居られないことを知っている。だから30歳というリミットを定めたのではありませんか。*9」と述べました。始まったばっかりの『この彼女はフィクションです。』なのですが、既に素晴らしい素材を手に入ったから、もし本文に述べた現実とフィクションの対立を込めれば、私にとっては名作になるに違いないでしょう。尤も、『この彼女はフィクションです。』タイトルそのものから既にいい響きがしていると思いませんか?


追申:

270 :名無しさんの次レスにご期待下さい:2011/02/12(土) 12:48:51 ID:9yCuy0oY0
ミチル フーコ→ミッチェル・フーコ→ミシェル・フーコー

この漫画、ただの萌え漫画と思わせて、意外と深いのかもしれない。

ミシェル・フーコーMichel Foucault、1926年10月15日 - 1984年6月25日)は、フランスの哲学者。
フーコーは『狂気の歴史』(1961年)で、
西欧世界においてかつては神霊によるものと考えられていた狂気が、
なぜ精神病とみなされるようになったのかを研究する。彼が明らかにしようとするのは、
西欧社会が伝統的に抑圧してきた狂気の創造的な力である。

というのを見たのですがどうでしょうね。

*1:漢字表記は蘭未散(あららぎ みちる)。

*2:片思いですが...

*3:あと、強いて言いますと、「生身の女に、興味なんかない!」と激昂した『GENSHIKEN ”DOUJINSHI”』の斑目もぎりぎりこの類なのですが、こちらは公式設定ではりませんので本文に載らないようにします。

*4:ちなみに、この痛さがまた気持ちいいというコメントもあります。

*5:ちなみに何故か全裸。身に着けているのはヘアピンと設定ノートにも書いた宝物の指輪だけ。個人的は服そのものも設定の一環に見なして、どうしても実体化なら服も一緒に着て欲しいです。脱衣より着衣とはある友人の座右の銘を思い出した。

*6:フィクションの場合は創作物。

*7:逆に、忍び恋じゃない場合は、勝手な思い込みで相手を美化して、いつか会ったら己の幻想とはあまりの落差があるからって相手が自分を裏切ったと罵ったのは大迷惑です。一見似たような物かもしれませんが、根が違います。

*8:うろ覚えですが、多分ヤギでしょうか。

*9:うろ覚えで間違っちゃいました。正しいは、「かといって、大魔導師になること自体を人生の目標としているわけではないのは明らかだ。人生の目標としたいのなら、童貞のまま死んだ時に、あの世で大魔導師になれるという設定でもいいわけだ。しかし、彼らは四十歳という期限を設けていた。つまり、この物語の虚飾性というか、限界を彼自身も十分に理解しているということなのだ。」