文化防衛論

■文化防衛論
読了。
感想を書く前に取り敢えずメモしとこう。


三嶋由紀夫『文化防衛論』

 中世以来の建築的精華に満ちたパリの破壊を逃れる為に、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらわれている。パリは一フランスの文化であるのみではなく、人類全体の文化的遺産であるから、これを破壊から護る事については敵味方一致するが、政治的局面においては、一方が他方に降伏したのである。そして国民精神を代償として、パリの保存を購ったのである。このことは明らかに国民精神に荒廃を齎したが、それは目に見えぬ破壊であり、見に見える破壊に比べたら、遥かに恕しうるものだった!


(中略)


 非武装平和を主張する一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによって世界史に平和憲法の理想が生かされれば良いと主張するのを聞いて、これがそのまま、戦時中の一億玉砕思想に直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守る為なら、保有者自身が全滅し、又、目に見える文化の総てが破壊されても良い、という思想である。


『文化防衛論』 P40〜41

形なき文化を守ろうとする一億総玉砕思想。

 日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。

(中略)

 ものとしての文化への固執が比較的稀薄であり、消失を本質とする行動様式への文化形式の移管が特色であるのは、こうした材質(木と紙の文化)の関係も一つの理由であろう。そこではオリジナルの廃滅が絶対的廃滅ではないばかりか、オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じないのである。
 そのもっとも端的例を伊勢神宮の造營に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亙る二十年毎の式年造營は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーに頼らざるをえぬギリシア古典期の雕刻を負うているハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造營の文化概念のユニークさは明らかであろう。歌道における「本歌とり」の法則その他、この種の基本的文化概念は今日なお我々の心の深所を占めている。
 このような文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にないところの天皇制の特質と見合っている。

(中略)

その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造營のように、今上であらせられると共に原初の天皇なのであった。大嘗会と新嘗祭の祕儀は、このことをよく伝えている。

『文化防衛論』 P43〜46

伊勢神宮天皇制から文化の生まれ変わり。

『文化防衛論』 P77〜79

 みやびの源流は天皇であるということは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の民衆文化論の示嗦するところところとなって、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発している。そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理「幽玄」「花」「わび」「さび」等を成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極み、古典主義の極致の祕庫が天皇なのであった。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と倫理的激発を絶えずインスパイヤするところに天皇の意義があり、この「没我的王制」が、時代時代のエゴイズムの掣肘力であると同時に包擁概念であった。天照大神はかくて、岩戸隠れによって、美的倫理的批判を行うが、権力によって行うのではない。速須佐之男命の美的倫理的逸脱は、このようにして、天照大神の悲しみの自己否定の形で批判されるが、ついに神の宴の、嗚滸業を演ずる天宇受売命に対する、文化の哄笑(もっとも卑俗なるもの)によって融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象型態が語られている。しかも、速須佐之男命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なる泣き枯す。」男神であった。菊の笑いと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されていた。
 速須佐之男命は、己の罪によって放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の最終の倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教えられるのである。これこそは八咫鏡の祕儀に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに「みやび」の中に包括され、そこに文化の全体性が残りなく示現し、文化概念としての天皇が成立する。というのが、日本文化史の大綱である。それは永久に、卑俗も包含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であった。

『文化防衛論』 P77〜79

みやび。




余談に、手塚治虫

 日本の国というものは何ら抽象概念も要しなければ、抽象的な規定も分析も要らない。我々はとにかく太古以来の一つの島の中に同民族が、同文化、同語言を使って連綿と続いてき、自らこの国を成した。手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧してつくったように書いたあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読みすぎたんだ。これはこの頃の子供に読ませるための共産主義者の宣伝で、単純な頭に分かり易く漫画で書いてある。

『学生とのティーチ・イン』 P350〜351

手塚治虫共産主義者かどうかは微妙ですね。どちらというと共産主義寄りの宮崎監督に嫌われたそうですが。

 「米帝」というのはアメリカ帝国主義のことで、つまり植民地主義のことだ。
 貧しい国の国民を低賃金で働かせて、アメリカばかりが豊かになるような政策といったような意味。学生運動が盛んだった60年安保の頃にはアメリカ批判としてよく使われた言葉だ。

(中略)

 その高畑勲に、宮崎駿はモロに思想的な影響を受ける。思想の根幹は共産主義だ。裕福な自分の生い立ちに疑問のあった宮崎駿は、そういったことに見識の深い高畑勲にイチコロでまいってしまった。

(中略)

「ディズニーが大好きと何度も公言する手塚治虫は許せない」
 と発展してくる。
 もともと大好きで、あこがれていて、どうしても超えられなかった手塚治虫。そのためにマンガ家を断念せざるをえなかった手塚治虫
 だからこそ、手塚治虫が「米帝の手先」なのは許せない。反抗の対象となってしまうのだ。
 手塚治虫手塚プロを作って鉄腕アトムを作り始めたときも、宮崎駿はめちゃめちゃ怒った。
 東映などの日本アニメの映画はリミテッドアニメといっても2コマのリミテッド、つまり1秒間に12コマだった。それが手塚治虫は3コマ、つまり1秒間に8コマしか使わない粗悪品にしてしまったのだ。
 しかも内容は、ロボットが喧嘩をするという大衆に迎合した低俗なものだ。もちろん、宮崎駿がこのとき考えていた「大衆に迎合しないもの」とは「労働や連帯の素晴らしさを謳い上げる」「啓蒙的な内容」のアニメだ。つまり「共産主義を子供達に教育する」である。
 そんなもの、どこを探しても鉄腕アトムに入っているわけもない。
 もちろん、極端なダンピングで、手塚治虫がアニメを受注してしまったことも許せない。予算が少ないということは、アニメーターたち労働者の労働環境が悪くなるということだ。案の定、『鉄腕アトム』のスタッフ達は低賃金で泊まり込み、徹夜までして働いている。
 手塚治虫はいいかもしれない。マンガの収入が山ほどあるのだから。アニメでいくら損をしても彼は平気なのだ。だが、他のスタッフ達は違う。アニメ業界全体のことを考えたら、絶対そんな条件で仕事を受けるべきではない!
 大好きだった手塚治虫だからこそ許せない。
 どうしても越えられない才能の持ち主だからこそ、許せない。
 その心が、手塚治虫の追悼記事にまで、大人げない恨み言を書いてしまうわけだ。

岡田斗司夫オタク学入門』・宮崎駿の追悼文

うん、「ディズニーが大好き」だから「米帝の手先」だと(宮崎よりも岡田的)思考の飛躍な気がしますね......


ちなみに、『癩王のテラス』

肉体の崩壊と共に、大伽藍が完成してゆくと云ふ、その恐ろしい対照が、恰も自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆかない芸術家の人生の比喩のやうに思はれた。


■Richard Wagner
http://imslp.org/wiki/Category:Wagner,_Wilhelm_Richard