お盆放浪、奈良一日目

■お盆放浪、奈良一日目
今晩の夜間バスで京都より出雲へ。なので夜まで京都に辿りつかないといかない。
山梨は伊勢・出雲への直行便がないものの、京都との直行がある。特に、京都は何気に見所が多い、調整も易いため、旧正月からよくこんな感じで京都を中間拠点として使う。ただし、今度は二回も京都中継の形になり、また伊勢からは奈良経由で京都へ行くため、乗換え点の大和八木中心にならでも行こうかと計画してみた。
場所的に橿原神宮が近いが、以前既に行ったことあるので後回し、『古事記』『日本書紀』に出た場所として墨坂神社は一度行ってみたい。あと丹生川上神社か、宇治上神社とかは機会があれば行きたいと思う。そんな感じで榛原で降りて回る予定になった。電車に乗ればまた伊勢斎宮の広告を張った列車と出会った。伊勢中川で特急に乗換える予定だったけど間に合えず、プラットフォームから階段を下りてまた登ったら丁度発車したのを見送りになった。よく見ると、乗ってきた電車の左右ともドアが開いているでは、こういう乗換えシステムを今更気づいて失敗。仕方無くもとの電車をそのまま乗りて、ゆっくり榛原へ。


丹生川上神社のアクセスページによると、榛原駅からはバスが出てるはずだが...バスの運転手に聞くと昔は走ってたものの今は既にその路線はもう無さそう。どうしても行くにはタクシーの利用...となると諦めるわ。とりあえず歩いて墨坂神社へ。
墨坂神社は『日本書紀神武天皇東征においで兄猾、弟猾〜兄磯城、弟磯城の段で有名で、頭八咫烏の話も有って近くに八咫烏神社も鎮座する。時間の都合上八咫烏神社には行けなかったが....

 九月甲子朔戊辰,天皇陟彼菟田高倉山之巔,瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥,【梟帥,此云たける。】又於女坂置女軍,男坂置男軍,墨坂置焃炭。其女坂、男坂、墨坂之號,由此而起也。復有兄磯城軍,布滿於磐余邑。【磯,此云し。】賊虜所據,皆是要害之地,故道路絕塞,無處可通。天皇惡之,是夜自祈而寢。夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,【香山,此云かぐやま。】以造天平瓮八十枚,【平瓮,此云ひらか。】并造嚴瓮,而敬祭天神地祇,【嚴瓮,此云いつへ。】亦為嚴呪詛。如此則虜自平伏。【嚴詛咒,此云いつのかしり。】」天皇祇承夢訓,依以將行。


(中略)


 兄磯城等猶守愚謀,不肯承伏。時椎根津彥計之曰:「今者宜先遣我女軍,出自忍坂道。虜見之,必盡銳而赴。吾則驅馳勁卒,直指墨坂,取菟田川水以灌其炭火,儵忽之間出其不意,則破之必也!」天皇善其策,乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至,畢力相待。先是皇軍攻必取,戰必勝。而介胄之士不無疲弊。故聊為御謠,以慰將卒之心焉。謠曰:

楯並めて 伊那瑳山の 木間ゆも い行守らひ 戰へば 我はや飢ぬ 島鳥 鵜飼が伴 今助けに來ね

 果以男軍越墨坂,從後夾擊破之,斬其梟帥兄磯城等。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_03

墨坂神社の祭神、墨坂大神は、天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 伊邪那岐神 伊邪那美神 大物主神の並称である。但し、前掲された件の場所は旧社地で今所は後ほど(文安六年)遷坐されたのである。境内の竜王宮には波動水という靈水があり、水道水の100倍の五万パワーがあるという。



墨坂神社

榛原駅に戻ったら「肇國聖跡 墨阪神社、鳥見山中靈畤址、墨阪神社附屬神武講社本部」と書いた石碑がある。確かに「榛原」の地名由来も『日本書紀』で伺える。

 四年,春二月壬戌朔甲申,詔曰:「我皇祖之靈也,自天降鑑,光助朕躬。今諸虜已平,海內無事。可以郊祀天神,用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中,其地號曰上小野榛原、下小野榛原,用祭皇祖天神焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_08

折角宇陀市に来たので「菟田(宇陀)血原」や「菟田高城跡」とかも見たいけれども、墨坂神社の神主によると遠いらしく、観光案内所に聞いたらやっぱりバスの本数が少なさそうだ。ここでお進められたのは、大宇陀。よく見ると、万葉集公園、人麻呂公園、阿紀神社、そして阿騎野の朝の壁画があるのではないか!そう、大宇陀はかの阿騎野である。
実は朝から雨が降っていて、あんまり無理はしたくない。観光案内所の人によるとそろぞろ止むし、降るだとしても小雨くらいだろうとのコメントがあったけれども...全然違う。大雨だった。阿紀神社を搜してみたけれども、見つかれず、変わりに最初に行く予定のなかった大龜和尚民芸館に辿りついた。雨宿りもかねて参観してみたらかなりの見所があり、特に吉田初三郎の「大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵」は、宇陀を中心に神武帝の御聖跡を描かれた傑作である。そこのひとも親切で色々勉強になった気分だ。
大龜和尚民芸館から坂を下りて、森の中に阿紀神社がある。阿騎野の阿騎に通じ、『皇太神宮儀式帳』では宇太乃阿貴宮と呼ばれ、『倭姫命世記』では宇多秋宮と呼ばれる元伊勢である。

 六十年癸未,遷于大和國宇多秋志野宮。積四箇年之間奉齋。于時,倭國造,進采女香刀比賣,地口、御田。
 倭姫命乃御夢爾:「高天之原坐而吾見之國仁,吾乎坐奉。」止悟教給比岐。從此東向,乞宇氣比氐詔久:「我思刺氐徃處。吉有奈良波,未嫁夫童女相逢。」止祈禱幸行。爾時,佐佐波多我門仁,童女參相。則問給久:「汝誰?」答曰:「奴吾波天見通命孫爾八佐加支刀部。一名,伊己呂比命。我兒宇太乃大禰奈。」登白岐。亦詔曰:「御共從仕奉哉?」答曰:「仕奉。」即御共從奉仕。
 件童女於大物忌止定給比弖,天磐戶乃鑰預賜利弖,無鄢心志弖,以丹心天,清潔久齋慎美,左物於不移右須,右物不移左志弖,左左,右右,左歸右迴事毛,萬事違事奈久志弖,太神爾奉仕。元元本本故也。又,弟大荒命,同奉仕。從宇多秋志野宮幸行而佐佐波多宮坐焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/yamatohime01.htm

人気が無く、清清しい場所である。神主は普段居なくて、御朱印は残念ながら頂けなかった。


大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵


元伊勢 阿紀神社


阿紀神社を後に、万葉公園と人麻呂公園へ向かう。阿騎野人麻呂公園は中之庄遺跡の掘立柱建物や竪穴式住宅の一部を復元して保存・整備するもの。中山氏の壁画「阿騎野の朝」を元に歌聖柿本人麻呂の石像を建てたのがその目玉である。「阿騎野の朝」というと、『万葉集』において人麻呂が軽王子に從って阿騎野へ遊狩の際に詠んだ長歌一首、短歌四首の連作の内、短歌第三「東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ」をモチーフしたものである。

0045 輕皇子宿于安騎野時,柿本朝臣人麻呂作歌
 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隱口乃 泊荑山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去來者 三雪落 阿騎乃大野爾 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
 八隅治し 我が大君 高照らす 日皇子 惟神 神さびせすと 太敷かす 京を置きて 隱國の 泊荑山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押並べ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去來れば 御雪降る 安騎大野に 旗芒 篠を押並べ 草枕 旅宿りせす 古思ひて
 八隅治天下 經綸恢弘我大君 空高輝曜照 日嗣輕皇子 惟神隨神性 如神稜威且端莊 太敷雄偉兮 飛鳥倭京今棄置 盆底隱國兮 長谷泊荑之山者 真木茂且立 雖彼山道路荒嶮 排闢巨岩根 遮路禁樹押並進 坂鳥劃坡兮 朝日曦時既越而 玉極輝耀兮 夕暮黃昏時來者 御雪所飄降 宇陀安騎大野間 幡薄旗芒與 篠竹之疇闢押排 草枕羇旅兮 今日旅宿在此野 慕思曩昔日並尊
柿本人麻呂 0045


0046 短歌 【承前。】
 阿騎乃野爾 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 去部念爾
 安騎野に 宿る旅人 衷靡き 眠も寢らめやも 古思ふに
 宇陀安騎野 假宿此野旅人矣 豈得𥶡心靡 何能眠兮獲安寢 心念故昔不自己
柿本人麻呂 0046


0047 【承前。】
 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曾來師
 真草刈る 荒野にはあれど 黃葉の 過ぎにし君の 形見とぞ來し
 真草薙刈兮 此地漫蕪雖荒野 木葉褪黃變 以此乃先君故地 慕其形見遂來矣
柿本人麻呂 0047


0048 【承前。】
 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
 東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ
 望東觀平野 安騎野間陽炎立 陽炎發茜色 驀然回首顧見者 殘月西傾將匿沒
柿本人麻呂 0048


0049 【承前。】
 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向
 日並の 皇子尊の 馬並めて 御狩立たしし 時は來向かふ
 往昔日並知 故君草壁皇子尊 列馬並諸騎 發向朝野率御狩 此時彷彿昔再來
柿本人麻呂 0049

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m01.htm#0045

中山正實氏はこの和歌を元に、有職故実の考証をし、名作壁画「阿騎野の朝」を生み出した。今は大宇陀区中央公民館に所蔵していて、登録すれば見学可能。私一人のために礼堂を開けて、紹介のラジオを流し、じっくり見学できるなんて恐縮の極まりであった。その絵はすでにネットで公開していて、但しいろんな細節はやっぱり本物を見ないと分からないので機会が有れば是非!


阿騎野 柿本人麻呂像(人麻呂公園、阿騎野の朝)


大宇陀から榛原駅に戻り、京都へ。目的は京都鉄道博物館。前回旧正月来た際はまだ開いていなかったので、連日日晒雨淋をしてきた自分には丁度いい休憇になった。夜は友人ちで夜間バスの発車まで時間を潰してまた出雲へ。


京都鉄道博物館