Dies irae原画展、補給物資、東京行、万葉集試訳

Dies irae原画展、補給物資

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■東京行



万葉集試訳

0184 【承前,十四。】
 東乃 多藝能御門爾 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
 東(ひむがし)の 多藝御門(たぎのみかど)に 侍(さもら)へど 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 召言(めすこと)も無(な)し
 雖居東宮之 島庄多藝激御門 陪侍待君命 然昨日去今日終 徒然空待無召言
舍人 0184

「多藝御門(たぎのみかど)」,「多藝(たぎ)」乃「激(たぎつ)」之喻。島庄遺跡設有東高西低之水路,上流湍急而下游和緩。其水蓋引自飛鳥川支流細川(東野川),大伴為石溝,亦有部分暗渠。
「侍(さもら)へ」乃陪侍君旁,隨時待命。此云雖身居島宮侍君,然昨日今日,以皇子仙逝,皆無君命,塗有空悲,

0185 【承前,十五。】
 水傳 礒乃浦迴乃 石上乍自 木丘開道乎 又將見鴨
 水傳(みなつた)ふ 礒浦迴(いそのうらみ)の 石躑躅(いはつつじ) 茂咲(もくさ)く道(みち)を 又(また)も見(み)む哉(かも)
 遣水傳流矣 島宮磯邊浦迴間 繁生石躑躅 孰知躑躅茂咲道 今後仍得復見哉
舍人 0185

「水傳(みなつた)ふ」指流水傳流,涓涓不絕。
「石躑躅(いはつつじ)」乃躑躅之類,『和名抄』云:「羊躑躅,いはつつじ(以波豆豆之),一云もちつつじ(毛知豆豆之)。」自生山野,花色淡紅紫,花萼有黏性。然『本草和名』云:「羊躑躅,いはつつじ(以波都都之),又しろつつじ(之呂都都之)。」者花色白矣。
「茂(も)く」,形容詞「茂(も)し」之連用形。『應神紀』、『遊仙窟』古訓「茂繁(もくしげ)くして、茂盛(もくさか)り。」
此云主君已逝,此一島宮中石躑躅茂之道,今後蓋無緣復見。

0186 【承前,十六。】
 一日者 千遍參入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
 一日(ひとひ)には 千度參(ちたびまゐ)りし 東(ひむがし)の 大(おほ)き御門(みかど)を 入難(いりかて)ぬ哉(かも)
 顧念往昔者 一日參詣百千度 東宮大御門 今後明君不復在 御門羅雀難入哉
舍人 0186

「難(かて)ぬ」表不可能。此云東宮過往眾人應召朝參門庭若市,今日主君已逝,人不得復入其門。

0187 【承前,十七。】
 所由無 佐太乃岡邊爾 反居者 嶋御橋爾 誰加住儛無
 由緣(つれ)も無(な)き 佐田岡邊(さだのをかへ)に 歸居(かへりゐ)ば 島御橋(しまのみはし)に 誰(たれ)か住(す)まはむ
 漠漠無由緣 佐田真弓岡之邊 吾今歸居者 島宮御橋迴廊間 往後荒漫誰人住
舍人 0187

「歸居(かへりゐ)ば」,草壁皇子仙逝後,舍人駐地不復在島宮,而是佐田之殯宮。
「島御橋(しまのみはし)」島庄遺跡可見部分掘立柱豎於水中,蓋為寢殿造之釣殿、迴廊之疇。自庭眺之當如橋乎。
「誰(たれ)か住(す)まはむ」,反語疑問詞。「誰人住」即引作「不復人居」之意。

0188 【承前,十八。】
 旦覆 日之入去者 御立之 嶋爾下座而 嘆鶴鴨
 朝曇(あさぐも)り 日(ひ)の入行(いりゆ)けば 御立(みた)たしの 島(しま)に下居(おりゐ)て 嘆(なげ)きつる哉(かも)
 朝晨天蔭曇 旦日蔽入浮雲後 皇子總佇立 屬意島庭下居者 徒然悲歎哀欷歔
舍人 0188

「朝曇(あさぐも)り 日(ひ)の入行(いりゆ)けば」,朝日沒入雲中而為蔽蔭,此以敘述實景暗示皇子薨去

0189 【承前,十九。】
 旦日照 嶋乃御門爾 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛
 朝日照(あさひて)る 島御門(しまのみかど)に 欝悒(おほほ)しく 人音(ひとおと)もせねば 真衷悲(まうらかな)しも
 朝日照明朗 島庭御門景光耀 然人心欝悒 肅然寂寥無人音 吾心由衷真傷悲
舍人 0189

「欝悒(おほほ)しく」與「人音(ひとおと)もせねば」照應,表示詠歌者之晴感。
本歌與前曲相對,前曲天蔭心悶,本歌則以天晴景麗,反而對照出人物悲傷,無心翫景。

0190 【承前,二十。】
 真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
 真木柱(まきばしら) 太心(ふときこころ)は 有(あ)りしかど 此我(このあ)が心(こころ) 鎮兼(しづめかね)つも
 吾負真木柱 情雖堅太氣宏遠 泰山崩不亂 然在此時居此刻 難鎮吾心怠毀滅
舍人 0190

「真木柱(まきばしら)」,太之枕詞。『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』等有「隨神教,下津磐根大宮柱太敷立」云云。
「真木柱 太心(ふときこころ)は 有(あ)りしかど」,此云無心堅毅,如真木柱粗壯,泰山崩於前而不改色。然逢皇子薨逝,悲哀之情難耐。
『三代實錄』藤原良繩薨傳有:「終然丁憂,解職去官,哀號過禮,殆於毀滅。」

0191 【承前,廿一。】
 毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陁乃大野者 所念武鴨
 褻衣(けころも)を 時片設(ときかたま)けて 出(い)でましし 宇陀大野(うだのおほの)は 思(おも)ほえむ哉(かも)
 私時褻衣兮 時日備設狩節至 不覺發思憶 昔日宇陀大野間 御狩之日情更甦
舍人 0191

「褻衣」,自古有晴(公)褻(私)之別,以為「時」之枕詞。
「時片設(ときかたま)けて」,此為準備以待授獵之時之意。原文「春冬」明示御獵時節。
「大野」乃未開墾之荒野、高原。

0192 【承前,廿二。】
 朝日照 佐太乃岡邊爾 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
 朝日照(あさひて)る 佐田岡邊(さだのをかへ)に 鳴鳥(なくとり)の 夜泣(よな)き變(かへ)らふ 此年頃(このとしころ)を
 朝日普照耀 佐田真弓岡之邊 鳴鳥泣血啼 吾若彼鳥終夜哭 此年此頃無息時
舍人 0192

「朝日照(あさひて)る 佐田岡邊(さだのをかへ)に 鳴鳥(なくとり)の」此三句為引出「夜哭」之序。
「變(かへ)らふ」乃表示反覆之「變(かへ)る」之繼續態。
「此年頃(このとしころ)」,『養老令』喪葬令十七服紀條云:「凡服紀者。為君。父母。及夫。本主一年。」

0193 【承前,廿三。】
 八多籠良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道敘為
 畑子等(はたこら)が 夜晝(よるびる)と云(い)はず 行道(ゆくみち)を 我(われ)は悉(ことごと) 宮道(みやぢ)にぞする
 務農畑子等 不捨晝夜所行道 吾等舍人者 以彼道悉為宮道 參詣殯宮致哀禮
舍人 0193
 右,日本紀曰:「三年己丑夏四月,癸未朔乙未,薨。」

「畑子等(はたこら)」,未詳。原文「八多籠良」之「八」字屬博拔切黠韻,表日語「は」音稍嫌不順,上古類例謹「四八津」、「八多」等,存疑。此姑從畑子之說解之。
「宮道」,通往殯宮之道。