Dies Irae Animation、万葉集試訳

Dies Irae Animation


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宮田登『ヒメの民俗学』 祭りと女の力

 福島市松川町金沢の羽山籠りの行事は、女人禁制で知られている。すべては羽山に住む神の意志で決せられるのである。その意志は託宣によって人々に伝えられるので、その託宣を聞く機会が毎年旧十一月中旬に行なわれた。羽山籠りと呼ばれているように、お籠りが中心となる。この際、籠り屋の神聖な炉の火を囲んで、男達だけが集まっており、所謂お別火の生活に入る。その間の食事はすべて男性が行なうのである。
 村の女性達は、男達が其処に籠っている間、近づく事を避けており、中で何が行なわれているのか預かり知らないのである。七、八年前に、偶々卒業論文のデーマにした東京の女子大生が、羽山籠りの儀礼を実見したいと思い、申し入れたが勿論神の拒否に会ってしまった。そこで一計を案じて、其処に籠りをしている村の若者の一人に頼み込み、本人は外に待ちながら、情報を伝えて貰ったという。丁度冬の真最中とて、雪も降り始めていて寒い夜であったが、二時間置き位に、頼まれた若者がいるのだと教え、それを女子学生はノートした。勿論これが男子学生だったら、他の男たちと同様に、精進潔斎の生活を送る条件で、中に入れて貰えたのであろう。祭りの始めから、女は参加出来ないと、人々は永い間信じてきているのだが、ここにおかしいな事がある。
 それは、籠り屋に入っている男たちの夫々の名称が女性に対する呼称である事だ。例えば、お籠りの最中の実務を担当する責任者をオガッカア、その後見人をバッバァ、補佐役にワカオッカア、その下にヨメ等がいる。これらの呼称は、家の女性に対するものであるが、二十名近い男ばかりの集団生活の間中、男同士で「オガツカァ」とか、「バッバァ」と言い合っている訳だ。
 この事は一体何を意味しているのだろう。
 祭りに伴う物忌精進に於いては、不浄な女を近づげないという一方的原則を男性社会が取決めてはいるが、男だけではどうしても物事が成り立たないという祭りの仕方があったのではないか。霊的な力の役割を男性側に委譲してしまった後でも、形骸化した姿であるけれど、女の役割を何所かに殘しているのである。羽山籠りでは、男が女の代行をさせられているようである。男が女言葉を使い、右往左往しながら食事を作ったり、演技をしたりりする背後には、強烈な女の力が働いているのではなかろうか。

万葉集試訳

1504 高安歌一首
 暇無 五月乎尚爾 吾妹兒我 花橘乎 不見可將過
 暇無(いとまな)み 五月(さつき)を尚(すら)に 我妹子(わぎもこ)が 花橘(はなたちばな)を 見(み)ずか過(す)ぎなむ
 忙碌苦無暇 五月時節尚不休 吾妹子宿間 端午花橘綻紛紛 無緣觀之而將過
高安王 1504

「五月(さつき)を尚(すら)に」,「すらに」表「尚連」,與『竹取物語』「行方そらも覺えず」之「そら」同源,具「空虛」之性詞。「を」字連接末句「過(す)ぐ」。

1505 大神女郎大伴家持歌一首
 霍公鳥 鳴之登時 君之家爾 徃跡追者 將至鴨
 霍公鳥(ほととぎす) 鳴(な)きし輙(すなは)ち 君(きみ)が家(いへ)に 行(ゆ)けと追(お)ひしは 至(いた)るらむ哉(かも)
 杜鵑霍公鳥 所啼發鳴之登時 吾命彼鳥之 徃去汝家而追行 如今蓋可將至哉
大神女郎 1505

「鳴(な)きし輙(すなは)ち」,「輙(すなは)ち」表即刻、當下。原文「登時」乃漢籍俗語之用法。

1506 大伴田村大孃與妹坂上大孃歌一首
 古鄉之 奈良思乃岳能 霍公鳥 言告遣之 何如告寸八
 故鄉(ふるさと)の 奈良思岡(ならしのをか)の 霍公鳥(ほととぎす) 言告遣(ことつげや)りし 何如(いか)に告(つ)げきや
 飛鳥舊京之 故鄉奈良思之岡 杜鵑霍公鳥 吾遣彼鳥告傳言 口訊相遞遞如何
田村大孃 1506

「故鄉(ふるさと)の」,平城遷都後之飛鳥・藤原舊京。
「奈良思岡(ならしのをか)の」,所在未詳。或云與1466「毛無岡」同處。存疑。http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m08.htm#1466
「何如(いか)に告(つ)げきや」,描述自身託言杜鵑,不知杜鵑如何傳言。「何如(いか)に」表以何種方式、何種內容。

1507 大伴家持橘花,贈坂上大孃歌一首 【并短歌。】
 伊加登伊可等 有吾屋前爾 百枝刺 於布流橘 玉爾貫 五月乎近美 安要奴我爾 花咲爾家里 朝爾食爾 出見毎 氣緒爾 吾念妹爾 銅鏡 清月夜爾 直一眼 令覩麻而爾波 落許須奈 由米登云管 幾許 吾守物乎 宇禮多伎也 志許霍公鳥 曉之 裏悲爾 雖追雖追 尚來鳴而 徒 地爾令散者 為便乎奈美 攀而手折都 見末世吾妹兒
 嚴(いか)と嚴(いか)と 在(あ)る我(わ)が宿(やど)に 百枝刺(ももえさ)し 生(お)ふる橘(たちばな) 玉(たま)に貫(ぬ)く 五月(さつき)を近(ちか)み 零(あ)えぬがに 花咲(はなさ)きにけり 朝(あさ)に日(け)に 出見(いでみ)る每(ごと)に 息緒(いきのを)に 我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)に 真十鏡(まそかがみ) 清月夜(きよきつくよ)に 唯一目(ただひとめ) 見(み)する迄(まで)には 散(ち)りこす勿(な) 努(ゆめ)と言(い)ひつつ 幾許(ここだく)も 我(わ)が守(も)る物(もの)を 慨(うれた)きや 醜霍公鳥(しこほととぎす) 曉(あかとき)の 衷悲(うらがな)しきに 追(お)へど追(お)へど 尚(なほ)し來鳴(きな)きて 徒(いたづら)に 地(つち)に散(ち)らさば 術(すべ)を無(な)み 攀(よ)ぢて手折(たを)りつ 見(み)ませ我妹子(わぎもこ)
 莊嚴遼闊哉 廣大吾宿庭院間 百枝欣向榮 所生非時香橘矣 當以長命縷 貫作藥玉五月近 猶將零滿溢 橘花盛咲開一面 朝朝復晝晝 每每出見彼花者 賭命懸魂絮 吾所思慕妹子矣 澄茢真十鏡 皎白清淨月夜間 直至唯一目 得拜汝眉之日迄 嘮叨訴不停 只願莫散勿凋零 雖禱祈幾許 吾守呵護此物者 嗚呼慨嘆哉 嗟乎彼醜霍公鳥 晨曦天方曉 吾浸物憂衷悲時 雖逐追放逐幾度 其尚啼血更來鳴 悲響震虛空 徒令花謝散一地 舉手更無措 唯有攀引手折枝 留花令見吾妹子
大伴家持 1507

「嚴(いか)と嚴(いか)と」,未詳。有「如何」與「莊嚴」二說。
「百枝刺(ももえさ)し」,「刺(さ)す」乃枝葉伸展之狀。
「玉(たま)に貫(ぬ)く」,此云趁橘果青澀之時以緒貫之。
「真十鏡(まそかがみ)」,「清月夜(きよきつくよ)に」之枕詞。
「幾許(ここだく)も」,甚之如此。
「慨(うれた)きや」,憤慨對方所為之形容詞。
「醜霍公鳥(しこほととぎす)」,「醜」乃咒罵對象之語。
「徒(いたづら)に」,無益、虛無。

1508 反歌 【承前。】
 望降 清月夜爾 吾妹兒爾 令視常念之 屋前之橘
 望降(もちぐた)ち 清月夜(きよきつくよ)に 我妹子(わぎもこ)に 見(み)せむと思(おも)ひし 宿橘(やどのたちばな)
 望月既已過 皎白清淨月夜間 吾衷有所思 欲令吾妹之所見 所折其枝屋前橘 
大伴家持 1508

「望降(もちぐた)ち」,「望(もち)」指十五滿月之日。「降」表盛期已過。此歌蓋詠四月十六或十七日許。

1509 【承前。】
 妹之見而 後毛將鳴 霍公鳥 花橘乎 地爾落津
 妹(いも)が見(み)て 後(のち)も鳴(な)かなむ 霍公鳥(ほととぎす) 花橘(はなたちばな)を 地(つち)に散(ち)らしつ
 令妹見彼花 其後將鳴而可矣 嗚呼霍公鳥 我恨汝鳴震虛空 震得花橘謝零落
大伴家持 1509

「後(のち)も鳴(な)かなむ」,「なむ」類似「こそ」為希求終助詞,而「なむ」多用於明知要求無理之場面。

1510 大伴家持贈紀女郎歌一首
 瞿麥者 咲而落去常 人者雖言 吾標之野乃 花爾有目八方
 撫子(なでしこ)は 咲(さ)きて散(ち)りぬと 人(ひと)は言(い)へど 我(わ)が標野(しめしの)の 花(はな)にあらめやも
 雖然人常道 瞿麥撫子色易褪 花開早謝散 吾度所指非吾誌 標野之內撫子花
大伴家持 1510

「我(わ)が標野(しめしの)の」,標示所有權,多用於獨佔女性之比喻。
「花(はな)にあらめやも」,主語乃撫子花。世人傳言女心易變,但信所云非己心上之人。

秋雜歌

1511 崗本(舒明)天皇御製歌一首
 暮去者 小倉乃山爾 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母
 夕去(ゆふさ)れば 小倉山(をぐらのやま)に 鳴鹿(なくしか)は 今夜(こよひ)は鳴(な)かず 寢(い)ねにけらしも
 每逢夕暮時 鳴泣呼妻小倉山 悲戚牡鹿者 今夜不聞其聲響 蓋是獲妻安寢哉
舒明天皇 1511

「寢(い)ねにけらしも」,古俗以為鹿以求偶喚妻,故而發鳴。此云今夜不聞鹿鳴,推測其求得良妻,與之安寢。『閑吟集』有「めぐる外山に鳴鹿は逢うた別れか、逢はぬ怨みか」之語。
1664有雄略帝所作異傳歌。

1512 大津皇子御歌一首
 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黃葉爾 霜莫零
 經(たて)も無(な)く 緯(ぬき)も定(さだ)めず 娘子等(をとめら)が 織(お)る黃葉(もみちば)に 霜莫降(しもなふ)りそね
 經線莫有之 緯絮虛兮無定形 娘子以山機 所織紅葉華錦上 還願寒霜莫降矣
大津皇子 1512

「經(たて)も無(な)く 緯(ぬき)も定(さだ)めず」,經緯乃織機之縱絲、膻絲。紅葉之錦無所造作,故無井然之經緯。
「織(お)る黃葉(もみちば)に」,此以華錦比喻紅葉之美。
此歌蘊含漢詩表現,『懷風藻』大津皇子之詩有「山機霜杼織葉錦」之語。

1513 穗積皇子御歌二首
 今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黃葉家良思 吾情痛之
 今朝朝明(けさのあさけ) 雁(かり)が音聞(ねき)きつ 春日山(かすがやま) 黃葉(もみち)にけらし 我(あ)が心痛(こころいた)し
 今朝旦開時 鴈鳴之音聲可聞 顧思春日山 今當黃葉染秋紅 我心悲慟愁更愁
穗積皇子 1513

「雁(かり)が音聞(ねき)きつ」,雁音表雁之鳴聲。秋日,雁自北國飛來,故聞其音而可知秋。
春日山(かすがやま) 黃葉(もみち)にけらし」,推定表現。作者非直接目睹,乃聞雁音而推之。
與其後但馬皇女和銅元年薨)之曲並列,或為穗積皇子歸平城京邸,追慕皇女之歌。

1514 【承前。】
 秋芽者 可咲有良之 吾屋戶之 淺茅之花乃 散去見者
 秋萩(あきはぎ)は 咲(さ)きぬべからし 我(わ)が宿(やど)の 淺茅(あさぢ)が花(はな)の 散(ち)りぬる見(み)れば
 吾度秋萩者 今蓋展顏盛咲哉 今觀吾宿之 淺茅之花散去者 可知時節當秋臨
穗積皇子 1514

「咲(さ)きぬべからし」,「咲(さ)きぬべくあるらし」之略。此亦非親眼目睹之推測。
「淺茅(あさぢ)が花(はな)の」,綻於盛夏而凋於秋風。

1515 但馬皇女御歌一首 【一書云,子部王作。】
 事繁 里爾不住者 今朝鳴之 鴈爾副而 去益物乎【一云,國爾不有者。】
 言繁(ことしげ)き 里(さと)に住(す)まずは 今朝鳴(けさな)きし 雁(かり)に伴(たぐ)ひて 行(ゆ)か益物(ましもの)を【一云(またにいふ)、國(くに)に在(あ)らずは。】
 較於住里間 流言蜚語惹人煩 不若離人煙 往去今朝鳴鴈處 相伴山野享清輭 【一云,較於棲國中。】
但馬皇女 1515

「里(さと)に住(す)まずは」,「ずは」表「比起...」之意。
「雁(かり)に伴(たぐ)ひて」,「伴(たぐ)ひ」表隨之、相伴之意。

1516 山部王,惜秋葉歌一首
 秋山爾 黃反木葉乃 移去者 更哉秋乎 欲見世武
 秋山(あきやま)に 黃變木葉(もみつこのは)の 移(うつ)りなば 更(さら)にや秋(あき)を 見(み)まく欲(ほ)りせむ
 時值秋山間 黃變木葉移去者 心惜秋葉落 更欲次秋早再臨 冀見紅葉再織錦
山部王 1516

「黃變木葉(もみつこのは)」,「黃變(もみつ)」原文「黃反」,反意與變同,䖝葉轉黃、轉紅之意。
「移(うつ)りなば」,花與紅葉凋零之貌。

1517 長屋王歌一首
 味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黃葉乃 散莫惜毛
 味酒(うまさけ) 三輪祝(みわのはふり)が 山照(やまて)らす 秋黃葉(あきのもみち)の 散(ち)らまく惜(を)しも
 美酒彌醇矣 御諸三輪社祝齋 聖山神奈備 照耀彼山秋黃葉 散落凋零令人惜
長屋王 1517

「味酒(うまさけ)」,三輪之枕詞。
「三輪祝(みわのはふり)が 山(やま)」,大神神社之社祝、神職所齋戒守護之三輪山

1518 山上臣憶良七夕歌十二首 【十二第一。】
 天漢 相向立而 吾戀之 君來益奈利 紐解設奈 【一云,向河。】
 天川(あまのがは) 相向立(あひむきた)ちて 我(あ)が戀(こ)ひし 君來坐(きみきま)す也(なり) 紐解設(ひもときま)けな 【一云(またにいふ)、川(かは)に向(むか)ひて。】
 天漢銀河矣 相隔此川兩相望 吾之所慕戀 君將來訪在今夕 故吾解紐設香閨 【一云,向河阻隔兩相望。】
山上憶良 1518
 右,養老八年七月七日應令。

「七夕」,中國古俗以為,七月七日夕,織女星渡銀漢,與牽牛星相會。日本亦於古早受此風俗,每逢七夕設宴吟詩。『懷風藻』可見藤原不比等五言詩,『萬葉集』亦有計百卅二曲。
「天川(あまのがは)」,銀河,牽牛星於東、織女星於西,相隔銀漢,唯七日得渡相會。
「君來坐(きみきま)す也(なり)」,君乃織女對牛郎之呼稱。日本盛行訪妻婚,故與中國織女來會之說相反,多云彥星來會織女。「也(なり)」於此為聞船楫之音而推定來訪之語。
「紐解設(ひもときま)けな」,「設(ま)く」乃「設(ま)うく」之古形,此云準備同寢。
「應令」,此云奉皇太子(聖武帝)之命。
類歌2048。

1519 【承前,十二第二。】
 久方之 漢爾 船泛而 今夜可君之 我許來益武
 久方(ひさかた)の 天川(あまのがは)に 舟浮(ふねう)けて 今夜(こよひ)か君(きみ)が 我許來坐(わがりきま)さむ
 遙遙久方兮 天漢銀河川水上 泛舟乘浮船 就在今宵我思君 將渡天川訪吾許
山上憶良 1519
 右,神龜元年七月七日夜左大臣宅。

「天川(あまのがは)に」,諸寫本原文作「漢爾」,『類聚古集』雖書「漢之川荑爾」,蓋依就訓而竄改之本文乎。
「我許來坐(わがりきま)さむ」,此乃臨摹織女心境之曲。
左大臣」,長屋王。其宅或指『懷風藻』所見「作寶樓」,未詳。方時長屋王卌九歲,憶良六十五歲。

1520 【承前,十二第三。】
 牽牛者 織女等 天地之 別時由 伊奈牟之呂 河向立 思空 不安久爾 嘆空 不安久爾 青浪爾 望者多要奴 白雲爾 茀者盡奴 如是耳也 伊伎都枳乎良牟 如是耳也 戀都追安良牟 佐丹塗之 小船毛賀茂 玉纏之 真可伊毛我母【一云,小棹毛何毛。】 朝奈藝爾 伊可伎渡 夕鹽爾【一云,夕倍爾毛。】 伊許藝渡 久方之 天河原爾 天飛也 領巾可多思吉 真玉手乃 玉手指更 餘宿毛 寐而師可聞【一云,伊毛左禰而師加。】 秋爾安良受登母【一云,秋不待登毛。】
 彥星(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の 別(わか)れし時(とき)ゆ 稻筵(いなむしろ) 川(かは)に向立(むきた)ち 思(おも)ふ心地(そら) 安(やす)け無(な)くに 嘆(なげ)く心地(そら) 安(やす)け無(な)くに 青波(あをなみ)に 望(のぞ)みは絕(た)えぬ 白雲(しらくも)に 淚(なみた)は盡(つ)きぬ 如是(かく)のみや 息衝居(いきづきを)らむ 如是(かく)のみや 戀(こ)ひつつあらむ 小丹塗(さにぬ)りの 小舟(をぶね)もがも 玉卷(たまま)きの 真櫂(まかい)もがも【一云(またにいふ)、小棹(をさを)もがも。】 朝凪(あさなぎ)に い搔渡(かきわた)り 夕潮(ゆふしほ)に【一云(またにいふ)、夕(ゆふべ)にも。】 い漕渡(こぎわた)り 久方(ひさかた)の 天川原(あまのかはら)に 天飛(あまとぶ)や 領巾片敷(ひれかたし)き 真玉手(またまで)の 玉手插交(たまでさしか)へ 數多夜(あまたよ)も 寐(い)ねてしかも【一云(またにいふ)、眠(い)もさ寢(ね)てしか。】 秋(あき)に非(あら)ずとも【一云(またにいふ)、秋待(あきま)たずとも。】
 彥星牛郎者 其與所戀機織女 早自天地之 初判之際兩相隔 稻筵藁席兮 銀漢天川對向立 所念方寸中 抑鬱忐忑無安平 所嘆胸懷間 哀愁滿溢莫安歇 清浪遮所見 還怨望斷不得眺 白雲蔽眼前 更恨淚盡涙已乾 唯有如此耶 日復一日終悲嘆 唯有如此耶 戀慕不息愁相思 欲得小丹塗 一葉扁舟不可得 玉得玉卷之 楫梶真櫂不可得【一云,楫梶小棹不可得。】 晨曦朝凪間 願得搔楫渡彼水 夕暮潮盈時【一云,夕暮黃昏時。】 冀得漕榜渡此川 遙遙久方兮 銀河天漢川原上 飛天隨風逸 領巾羽衣望披之 還願交汝纖玉手 幾多春宵夜 相交纏綿依不離【一云,相枕共寢覆雲雨。】 縱令此宵非七夕【一云,縱令不待秋來矣。】
山上憶良 1520

「彥星(ひこほし)」,牽牛星。3657書「比故保思」,與論島至今仍言「ぴくぷし」。
「織女(たなばたつめ)」,「織機(たなばた)」乃設棚坐以足踏之縫紉機器。獨以「たなばた」表「織機女(はたおりめ)」者,多半專指織女星而語牽牛相對。
「天地(あめつち)の 別(わか)れし時(とき)ゆ」,七夕傳説傳至日本,漸漸日化,蓋部分以為其與神代天地創造同期哉。
「稻筵(いなむしろ)」,川之枕詞。修飾方式未詳。
「思(おも)ふ心地(そら)」,「心地(そら)」表心情,專用於不安之心理。
「青波(あをなみ)に」,銀河之波濤。其色與白雲相對。
「望(のぞ)みは絕(た)えぬ」,漢語「望斷」之翻譯語,望指遠望。
「小丹塗(さにぬ)りの」,「小丹(さに)」乃稍帶黃色之赤。其與下句「玉卷(たまま)きの」皆表空想之裝飾。
「真櫂(まかい)もがも」,真乃合左右兩舷之接頭語。櫂乃划船之工具。
「天川原(あまのかはら)に」,天川之河原。此乃七夕傳說與日本神化融合之表現。
「天飛(あまとぶ)や」,「領巾(ひれ)」之枕詞。蓋以領巾輕飄,視為非形自在之具。や乃間投助詞。
「領巾片敷(ひれかたし)き」,於此在美化天上戀情之際,亦視之為飛行之句,與天衣、羽衣混同。「片敷」多與「衣袖」等語相接,表示孤寢之狀,而此言夫婦共寢堪屬異例。
「數多夜(あまたよ)も」,此云不滿足於ㄧ年只得一晚之情。
「寐(い)ねてしかも」,「てしかも」表願望。

1521 反歌 【承前,十二第四。】
 風雲者 二岸爾 可欲倍杼母 吾遠嬬之【一云,波之嬬乃。】 事曾不通
 風雲(かぜくも)は 二(ふた)つの岸(きし)に 通(かよ)へども 我(わ)が遠妻(とほづま)の【一云(またにいふ)、愛妻(はしつま)の。】 言(こと)そ通(かよ)はぬ
 風雲自在天 來回兩岸不受阻 雖然如此者 何奈吾人遠妻之【一云,何奈親親愛妻之。】 隻言片語不得通
山上憶良 1521

「遠妻(とほづま)」,此云織女星
「愛妻(はしつま)」,「愛(はし)」表可人憐愛之意。

1522 【承前,十二第五。】
 多夫手二毛 投越都倍吉 天漢 敝太而禮婆可母 安麻多須辨奈吉
 飛礫(たぶて)にも 投越(なげこ)しつべき 天川(あまのがは) 隔(へだ)てればかも 數多術無(あまたすべな)き
 若擲飛礫者 理宜投越不費勁 天川幅不廣 卻以其隔在途間 相會無方徒傷悲
山上憶良 1522
 右,天平元年七月七日夜,憶良仰觀天河。【一云,帥家作。】

飛礫(たぶて)」,投擲之飛石。
「投越(なげこ)しつべき」,「越(こ)す」乃「越(こ)ゆ」之他動詞態。此云銀河幅面不廣,但苦無由渡之。
「隔(へだ)てればかも」,疑問條件語。
天平元年七月七日」,按此時,大伴旅人、山上億良並在太宰府
「帥」,此云太宰帥大伴旅人。其邸蓋在政廳周遭。

1523 【承前,十二第六。】
 秋風之 吹爾之日從 何時可登 吾待戀之 君曾來座流
 秋風(あきかぜ)の 吹(ふ)きにし日(ひ)より 何時(いつ)しかと 我(あ)が待戀(まちこ)ひし 君(きみ)そ來坐(きませ)る
 夫自立秋之 秋風瑟瑟拂日起 衷念何時會 吾人朝暮引領盼 待慕之君今來也
山上憶良 1523

「秋風(あきかぜ)の 吹(ふ)きにし日(ひ)より」,立秋以來。表七夕難待之常套句。
「何時(いつ)しかと」,心急如焚,心頭每念何時能相逢云云。

1524 【承前,十二第七。】
 天漢 伊刀河浪者 多多禰杼母 伺候難之 近此荑呼
 天川(あまのがは) 甚川波(いとかはなみ)は 立(た)たねども 伺候難(さもらひがた)し 近(ちか)き此荑(このせ)を
 銀漢天之川 雖彼川波不甚湧 俟候誠難矣 近在眼前莫得渡 嗚呼惱人此川荑
山上憶良 1524

「甚川波(いとかはなみ)は」,「甚(いと)」多用以修飾形容詞,此歌用以修飾「立つ」,堪稱異例。
「伺候難(さもらひがた)し」,「伺候(さもらひ)」表等待與戀人相逢之日。

1525 【承前,十二第八。】
 袖振者 見毛可波之都倍久 雖近 度為便無 秋西安良禰波
 袖振(そでふ)らば 見(み)も交(かは)しつべく 近(ちか)けども 渡(わた)る術無(すべな)し 秋(あき)にしあらねば
 若振揮袖者 形姿歷歷可相見 所近雖如此 越渡無方更催愁 只因七夕日未至
山上憶良 1525

「見(み)も交(かは)しつべく」,幾乎可相見對方之容貌(般近)。
「近(ちか)けども」,原文「雖近」,或可訓「近(ちか)けれど」,而此採ども訓之。形容詞之已然形活用語尾雖有「け」「けれ」二形,而後者極為罕見。
「秋(あき)」,此云七夕。

1526 【承前,十二第九。】
 玉蜻蜒 髣髴所見而 別去者 毛等奈也戀牟 相時麻而波
 玉限(たまかぎ)る 髣髴(ほのか)に見(み)えて 別(わか)れなば 元無(もとな)や戀(こ)ひむ 逢時迄(あふときまで)は
 玉極輝耀兮 髣髴之間所見爾 蓋在離別後 戀慕無故生油然 直至有朝再逢時
山上憶良 1526
 右,天平二年七月八日夜,帥太宰帥家集會。

「玉限(たまかぎ)る」,珠玉瞬間發出光耀之狀,「髣髴(ほのか)」之枕詞。
「髣髴(ほのか)に見(み)えて」,稍微、倉促、不確定地會面。
「元無(もとな)」,無由。
「逢時迄(あふときまで)は」,原文「麻而」之用例,亦見於平城宮木簡「至流麻而爾(至るまでに)」。

1527 【承前,十二第十。】
 牽牛之 迎嬬船 己藝出良之 天漢原爾 霧之立波
 彥星(ひこほし)し 妻迎(つまむか)へ舟(ぶね) 漕出(こぎづ)らし 天川原(あまのかはら)に 霧立(きりのた)てるは
 牛郎彥星之 迎妻織女扁舟者 今蓋榜出哉 見彼銀河天川原 水沫化霧可知之
山上憶良 1527

「彥星(ひこほし)し 妻迎(つまむか)へ舟(ぶね)」,此云牛郎為迎接織女來訪所出之船。一般七夕傳說與日本訪妻制習合後,多為牛郎前往織女住處,而此歌不然。或以雙方出船,稱折衷形。
「霧立(きりのた)てるは」,此乃槳上雫滴化作霧雨之俗信。

1528 【承前,十二十一。】
 霞立 天河原爾 待君登 伊徃還爾 裳襴所沾
 霞立(かすみた)つ 天川原(あまのかはら)に 君待(きみま)つと い行返(ゆきかへ)るに 裳裾濡(ものすそぬ)れぬ
 霞起霧瀰漫 天上銀河川原中 引領待君至 坐立徃還徘徊間 裳襴沾濕裾濡矣
山上憶良 1528

「霞立(かすみた)つ」,一般和歌以霞述春,以霧言秋,而該習慣於此時尚未成形。
「い行返(ゆきかへ)るに」,「い」乃接頭語。類聚古集、廣荑本等非仙覺本系統原文作「伊徃還爾」。仙覺本、神宮文庫本作「伊徃還程爾」者,蓋仙覺依古點「いかやふほとに」而加「程」字哉。

1529 【承前,十二十二。】
 天河 浮津之浪音 佐和久奈里 吾待君思 舟出為良之母
 天川(あまのがは) 浮津波音(うきつのなみおと) 騒(さわ)く成(な)り 我(わ)が待(ま)つ君(きみ)し 舟出(ふなで)すらしも
 銀河天之川 浮津淺橋船埠處 波音騒可聞 蓋是朝思復暮想 吾所待君榜舟出
山上憶良 1529

「浮津波音(うきつのなみおと)」,或為浮淺橋泛於水上之類,或因銀河而船埠渡口浮空之意象描述。
「騒(さわ)く成(な)り」,「なり」乃傳聞推定語。耳聞淺橋波音,以之為根據所立之推測。
以上三首,雖為山上憶良之作,然不明其所詠地點、緣由。

1530 大宰諸卿大夫并官人等宴筑前國蘆城驛家歌二首
 娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代爾將見
 女郎花(をみなへし) 秋萩交(あきはぎまじ)る 蘆城野(あしきの)の 今日(けふ)を始(はじ)めて 萬世(よろづよ)に見(み)む
 妍哉女郎花 其與秋荻交爭艷 遍開蘆城野 始自今日翫其景 欲賞直至萬世後
佚名 1530

「女郎花(をみなへし) 秋萩交(あきはぎまじ)る」,「女郎花」後蓋省略助詞「に」。

1531 【承前。】
 珠匣 葦木乃河乎 今日見者 迄萬代 將忘八方
 玉櫛笥(たまくしげ) 蘆城川(あしきのかは)を 今日見(けふみ)ては 萬代迄(よろづよまで)に 忘(わす)らえめやも
 珠匣玉櫛笥 太宰府邊蘆城川 今日見其景 餘韻不絕纏心頭 縱令萬代豈忘哉
佚名 1531
 右二首,作者未詳。

「玉櫛笥(たまくしげ)」,以「開(あ)く」之緣而為「蘆城(あしき)」之枕詞。
以上二首,赴任太宰府之初,於蘆城川設宴歡迎之曲。

1532 笠朝臣金村伊香山作歌二首
 草枕 客行人毛 徃觸者 爾保比奴倍久毛 開流芽子香聞
 草枕(くさまくら) 旅行人(たびゆくひと)も 行觸(ゆきふ)れば 匂(にほ)ひぬべくも 咲(さ)ける萩(はぎ)かも
 草枕在異地 漂泊他鄉旅行人 一旦徃觸者 艷色太過將匂染 如此盛開萩花
笠金村 1532

草枕(くさまくら)」,羈旅之際,以草為枕野宿在外,故為「旅」之枕詞。
「旅行人(たびゆくひと)も」,句末「も」字蓋為合其字數而至此,其意寔當「旅行人(たびゆくひと) 行觸(ゆきふ)れもせば」哉。
「匂(にほ)ひぬべくも」,「匂(にほ)ふ」於此乃赤色移染之狀。事實上萩花不適作為染料,但以其花盛開極度鮮豔,誇飾云好似將受其色所染云云。

1533 【承前。】
 伊香山 野邊爾開有 芽子見者 公之家有 尾花之所念
 伊香山(いかごやま) 野邊(のへ)に咲(さ)きたる 萩見(はぎみ)れば 君(きみ)が家(いへ)なる 尾花(をばな)し思(おも)ほゆ
 淡海伊香山 野邊所咲萩花矣 見彼花開者 觸景生情發油然 思念君家尾花矣
笠金村 1533

「君(きみ)が家(いへ)なる」,此文君字不明所指孰人,或為同行友人。
「尾花(をばな)」,芒草之花穗。

1534 石川朝臣老夫歌一首
 娘部志 秋芽子折禮 玉桙乃 道去裹跡 為乞兒
 女郎花(をみなへし) 秋萩折(あきはぎを)れれ 玉桙(たまほこ)の 道行(みちゆ)き裹(づと)と 乞(こ)はむ兒(こ)が為(ため)
 當摘女郎花 復折秋萩納行囊 以為玉桙兮 道行羈旅裹土毛 獻予將乞娘子矣
石川老夫 1534

「秋萩折(あきはぎを)れれ」,「折(を)れれ」乃「折(を)れり」之命令形。作者指使從者之語。
「道行(みちゆ)き裹(づと)と」,句後省略表願望之終助詞「もが」。此云設想女子將討行旅之土產,而折枝以贈。

1535 藤原宇合卿歌一首
 我背兒乎 何時曾且今登 待苗爾 於毛也者將見 秋風吹
 我(わ)が背子(せこ)を 何時(いつ)そ今(いま)かと 待(ま)つなへに 面(おも)やは見(み)えむ 秋風吹(あきのかぜふ)く
 朝思暮所戀 引領盼吾兄子來 何時且今哉 焦待之間面將見 秋風吹報七夕至
藤原宇合 1535

「何時(いつ)そ今(いま)かと」,「今(いま)か」原文「且今」同「且今且今(いまかいまか)」,表迫不及待之狀。
「面(おも)やは見(み)えむ」,蓋將見得心上人之一面哉。上代語將「やは」用於文中者,僅此一例。中古則或用於反語。此歌用為插入句。
「秋風吹(あきのかぜふ)く」,隨秋風吹起,預知男子將訪。蓋臨摹織女之情,所詠七夕之曲。

1536 緣達師歌一首
 暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黃葉早續也
 宵(よひ)に逢(あ)ひて 朝面無(あしたおもな)み 名張野(なばりの)の 萩(はぎ)は散(ち)りにき 黃葉早繼(もみちはやつ)げ
 昨夜渡春宵 朝日羞赧無顏對 隱兮名張野 荻花既散景色衰 還願紅葉早續之
緣達帥 1536

「宵(よひ)に逢(あ)ひて 朝面無(あしたおもな)み」,引出地名「名張野(なばりの)」之序文。「名張」與「隱」同音,此以嬌羞不敢直視對方而為言。
「黃葉早繼(もみちはやつ)げ」,原文「早續也」乃命令詞。

1537 山上臣憶良詠秋野花歌二首
 秋野爾 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 【其一。】
 秋野(あきのの)に 咲(さ)きたる花(はな)を 指折(およびを)り 搔數(かきかぞ)ふれば 七種花(ななくさのはな) 【其一。】
 蕭瑟秋野間 所咲妍花綴色彩 屈指細數之 娓娓道來一一筭 其花計有七種矣
山上憶良 1537

「指(および)」,「指(ゆび)」之古語。
「其一」,連歌題其一、其二者,仿『昭明文選』、『玉台新詠』等漢詩之例也。

1538 【承前。】
 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 【其二。】
 萩花(はぎのはな) 尾花葛花(をばなくずはな) 撫子花(なでしこのはな) 女郎花(をみなへし) 亦藤袴(またふぢばかま) 朝顏花(あさがほのはな) 【其二。】
 萩花秋之芽 芒草尾花又葛花 瞿麦石竹撫子花 嬌勝女郎花 復亦藤袴紫藤花 五芒桔梗朝顏花
山上憶良 1538

「葛花(くずはな)」,群開於秋分之際,呈紫紅色。
藤袴(ふぢばかま)」,菊科多年草。初秋筒狀淡紫之花成群綻放,如袴似浪。
「朝顏花(あさがほのはな)」,有諸說。或云擬桔梗,或云乃牽牛、木槿、旋花之疇。

1539 天皇(聖武)御製歌二首
 秋日乃 穂田乎鴈之鳴 闇爾 夜之穂杼呂爾毛 鳴渡可聞
 秋日(あきのひ)の 穂田(ほた)を雁(か)りがね 暗(くら)けくに 夜時分(よのほどろ)にも 鳴渡(なきわた)るかも
 秋熟稔豐饒 晝苅穂田暮雁啼 六合沒闇間 夜之將更此時分 鳴渡大虛響終宵
聖武天皇 1539

「秋日(あきのひ)の 穂田(ほた)を」,借「苅(か)り」與「雁(かり)」同音之序。首句秋日與後文秋夜相對。
「夜時分(よのほどろ)にも」,夜中之意。

1540 【承前。】
 今朝乃旦開 鴈鳴寒 聞之奈倍 野邊能淺茅曾 色付丹來
 今朝朝明(けさのあさけ) 雁(かり)が音寒(ねさむ)く 聞(き)きしなへ 野邊淺茅(のへのあさぢ)そ 色付(いろづ)きにける
 今朝旦開時 鴈鳴淒涼音且寒 聞彼啼泣時 不覺野邊淺茅者 已然添色飾秋彩
聖武天皇 1540

「聞(き)きしなへ」,「なへ」同「なへに」,表與前動詞發生之同時之意。
紀州本於1539前無「天皇御製歌二首」,而於1540題「天皇御製哥一首」。『類聚古集』依然於1540題「天皇御製歌一首【可考】」,更於1539書山上憶良。則或視1538僅為秋妻草之羅列,不認其為一首。此姑從仙覺本,以俟後攷。

1541 大宰帥大伴旅人卿歌二首
 吾岳爾 棹壯鹿來鳴 先芽之 花嬬問爾 來鳴棹壯鹿
 我(わ)が岡(をか)に 小雄鹿來鳴(さをしかきな)く 初萩(はつはぎ)の 花妻問(はなつまど)ひに 來鳴(きな)く小壯鹿(さをしか)
 吾岡丘陵間 小雄牡鹿步來鳴 蓋以初萩之 萩花擬妻喚彼睞 故而來鳴小壯鹿
大伴旅人 1541

「花妻問(はなつまど)ひに」,古俗鹿鳴呼妻,此云視萩花為妻,欲問之而來鳴。

1542 【承前。】
 吾岳之 秋芽花 風乎痛 可落成 將見人裳欲得
 我(わ)が岡(をか)の 秋萩花(あきはぎのはな) 風(かぜ)を疾(いた)み 散(ち)るべくなりぬ 見みむ人ひともがも
 吾岳丘陵間 秋萩之花盛一面 然恐風疾勁 懼彼萩花遭拂落 欲令人見散盡前
大伴旅人 1542

「散(ち)るべくなりぬ」,卷五追和梅花歌卅二首四曲之851有同句,故或有說以為該四首亦大伴旅人之作。